阿弥陀如来
アミターバ · アミターユス · 無量光仏
西方の極楽浄土を主宰する如来。すべての衆生を救うと誓い、その名を称えれば往生できると説かれ、東アジアの信仰を大きく変えた。
解説
概要
阿弥陀如来(あみだにょらい)は、西方の極楽浄土を主宰する如来である。梵名にはアミターバ(無量光)とアミターユス(無量寿)の二つがあり、いずれも音写して阿弥陀とする。限りない光と限りない命という二つの属性が、そのまま名になっている。
法蔵という名の菩薩であったとき四十八の誓願を立て、そのすべてが成就しなければ仏とならないと誓ってのちに成仏したとされる。なかでも第十八願は、心から浄土に生まれたいと願う者を必ず迎えると説き、東アジアの浄土信仰の根拠となった。日本仏教の展開を最も大きく左右した尊格といってよい。
神話・物語
『無量寿経』によれば、はるかな過去、世自在王仏のもとで一人の国王が位を捨てて出家し、法蔵と名のった。法蔵は二百十億の仏国土を示され、五劫のあいだ思惟を重ねて四十八の誓願を立てる。そして計り知れない時をかけて修行を成し遂げ、仏となった。十劫の昔から西方の極楽で説法を続けているとされる。
『観無量寿経』は、その教えが説かれた事情を語る。王舎城で阿闍世が父の頻婆娑羅王を幽閉し、母の韋提希をも幽閉したとき、韋提希は苦悩のなかから釈迦に救いを求めた。これに応じて釈迦が浄土を観ずる十六の法を説いたという筋立てである。人の世の最も暗い場面から浄土の教えが説き起こされる構成になっている。
『阿弥陀経』は、釈迦が舎利弗に向かって極楽の荘厳を語り、その名を称えることを勧める短い経である。これら三経は浄土三部経と総称される。
図像と象徴
阿弥陀如来の像は、印相によって見分けられる。腹前で両手を組む阿弥陀定印、右手を挙げ左手を下げる来迎印があり、それぞれに上品・中品・下品と上生・中生・下生を掛け合わせた九品の印が説かれる。脇侍は観音菩薩と勢至菩薩で、あわせて阿弥陀三尊をなす。
浄土信仰の高まりとともに発達したのが来迎図である。臨終の床にある者を阿弥陀が菩薩たちを従えて迎えに来る場面を描き、二十五菩薩来迎図のように多数の随行を伴う構図も生まれた。死の瞬間を、恐怖ではなく来訪として描き替えた図像といえる。
本項に掲げるのは、宇治の平等院鳳凰堂に安置される定朝作の阿弥陀如来坐像(天喜元年/一〇五三年、国宝)である。寄木造の技法を完成させた作として日本彫刻史の画期に位置し、以後の和様の仏像の規範となった。鎌倉の高徳院に露坐する大仏も阿弥陀如来である。
系譜と関係
三身の枠組みでは、阿弥陀如来は報身仏の代表とされる。姿も形もない真理そのものである法身(大日如来)、人としてこの世に現れた応身(釈迦如来)に対し、衆生を救うために功徳を積んで成った仏という位置づけである。ただし三身をどう分けるかについては経典ごとに異なる説があり、単純な三者対応として固定できるものではない。
密教では金剛界五仏の一尊として西方を担い、曼荼羅に配される。観音菩薩が宝冠に小さな仏を戴くのは阿弥陀の化仏であり、両尊の結びつきを示す。
日本の本地垂迹では、阿弥陀如来を本地仏とする神が多い。八幡神の本地を阿弥陀とするのが通説となったのはその代表例で、日蓮はこれを否定して釈迦を本地とした。チベット仏教では、パンチェン・ラマが阿弥陀の化身とされる。
文化的足跡
「南無阿弥陀仏」と称える称名念仏は、平安中期の空也や源信を経て広まり、法然が専修念仏を説いて浄土宗を開き、その門下の親鸞に始まる流れが浄土真宗となった。造像や写経といった行を修めるだけの余力のない人々にも往生の道が開かれたという点で、この教えは仏教の社会的な広がりを決定的に変えた。今日も日本で最大級の信者を擁する宗派が、この尊格への帰依を中心に据えている。
日常語にも痕跡が残る。「あみだくじ」の名は、放射状に線を引く古い形が阿弥陀の光背に似ることに由来するとされ、帽子を後ろにずらしてかぶることを「あみだかぶり」というのも同じ連想による。