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神功皇后
PLATE — 神功皇后
YAMATO · 日本神話
神功皇后

神功皇后

気長足姫尊 · 息長帯比売命 · 大帯比売命

歌川国芳による神功皇后図(1843–44年頃)/ハンブルク美術工芸博物館蔵, CC0 CC0

記紀が伝える仲哀天皇の皇后。神託を受けて海を渡ったとされ、応神天皇の母として八幡三神の一柱に数えられる。実在性は今日の議論の対象である。

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解説

概要

神功皇后(じんぐうこうごう)は、記紀が第十四代仲哀天皇の皇后として伝える人物である。『日本書紀』では気長足姫尊(おきながたらしひめのみこと)、『古事記』では息長帯比売命と記す。夫の死後、神託を受けて海を渡り、帰還後に誉田別尊(のちの応神天皇)を産み、子が即位するまで政を執ったとされる。八幡神の母神として八幡三神の一柱に数えられ、住吉大社をはじめ各地の社に祀られる。ただしその事績を史実として扱うことはできず、伝承の成り立ちそのものが研究の対象となっている。

神話・物語

『日本書紀』によれば、仲哀天皇が筑紫の橿日宮で熊襲征討を図ったとき、皇后に神が憑いて託宣を下した。痩せた熊襲の国を攻めても益はない、海の彼方の宝の国を求めよ、という内容である。天皇はこれを信じず、まもなく崩じた。『古事記』は、神の言葉を退けたために天皇が琴を弾きながら息絶えたと、より劇的に描く。同じ場面でも両書の筆致は異なり、書紀は熊襲の矢に当たったとする異伝も併記している。

皇后は改めて審神者(さにわ)を立てて託宣の主を確かめ、天照大神の荒魂と住吉三神らの意であることを知る。男装して自ら軍を率い、身重のまま玄界灘を渡ったと伝えられる。この遠征譚は近世以降「三韓征伐」と総称されるようになった。帰還後、筑紫で誉田別尊を産む。産んだ地を「生み」から宇美と呼ぶという地名起源譚が付されている。

畿内へ戻る途上、仲哀天皇の遺児である麛坂王・忍熊王が兵を挙げるが、武内宿禰の計略に敗れる。皇后は皇太后として摂政の位に就いたとされる。

史実性をめぐって

『日本書紀』は皇后の統治を約七十年に及ぶものとして記すが、『古事記』にこれに対応する長い統治の記述はない。書紀の編者が皇后を『魏志』倭人伝の卑弥呼に重ねる意図をもって年代を配置したとみられているものの、両者の年代には百二十年ほどの隔たりがある。渡海遠征そのものについても対応する考古学的・文献的裏づけは乏しく、後代に構成された物語とみる立場が現在の学界では有力である。

近代における扱いも記しておく必要がある。明治十四年(一八八一)に発行が始まった改造紙幣は、神功皇后の肖像を掲げた。日本で最初の本格的な肖像入り紙幣であり、その像はエドアルド・キヨッソーネが印刷局の女性職員をモデルに創作したもので、伝承上の人物の顔が近代国家によって与えられた例といえる。明治期には第十五代天皇・初の女帝として数える書もあったが、大正十五年(一九二六)の皇統譜令によって歴代天皇から外された。「三韓征伐」の物語が近代の対外政策のなかで参照された経緯もあり、この伝承を扱うにあたっては、記紀の記述と、後世がそれに与えた意味とを切り分けて読む必要がある。

系譜と関係

父は息長宿禰王、母は葛城高顙媛と伝える。夫は仲哀天皇、子は応神天皇。応神天皇の神霊が八幡神とされたことにより、皇后自身も八幡三神の一柱として全国の八幡宮に祀られることとなった。母子をともに祀るこの形は、母子神信仰の一例として論じられる。

住吉三神との関わりも深い。託宣を下した神として書紀・古事記の双方に住吉三神が現れ、帰還後にその荒魂・和魂を祀ったと記される。住吉大社は皇后を祭神の一柱とする。

文化的足跡

神功皇后の物語は、中世以降、絵巻・幸若舞・浄瑠璃などに繰り返し取り上げられた。『神功皇后縁起絵巻』(誉田八幡宮蔵)はその代表である。福岡・大分を中心に、皇后の巡行にちなむ地名起源譚や社伝は数えきれないほど残り、八幡信仰の広がりと重なって分布している。

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領分・別名

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資料

Wikidata
Q232803 — 骨格データの出典
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