ファンド
ファン · ファンド · Fann
アイルランド神話の異界の女。マナナン・マクリルの妻で、『クー・フーリンの病臥』では英雄と契りながら、その妻の器量を認めて自ら身を引いた。
解説
概要
ファンド(Fand)は、アイルランド神話に登場する異界の女である。マナナン・マクリルの妻とされ、後世には妖精の女王として記憶されたが、より早い記述は彼女自身が海の神格であった可能性を示す。
名には二つの綴りが伝わる。Fand は「涙」あるいは「美の涙」、Fann は「弱き者、寄る辺なき者」と解される。両者は同じ語の音韻上の異形ではなく、意味の異なる別語であり、どちらが本来の形かは決着していない。
神話・物語
アルスター・サイクルの『クー・フーリンの病臥』が彼女の主要な物語である。アド・アブラトの娘、リー・バンの姉妹として現れる。
物語は湖の鳥から始まる。銀の鎖で二羽ずつつながれた異界の鳥の群れのなかで、彼女と妹だけは金の鎖でつながれていた。クー・フーリンが投げた石は彼女の翼の羽を貫く。のちに二人は人の姿で岸に現れ、鞭で英雄を打ちすえた。彼は倒れ、一年のあいだ床から起き上がれなくなる。
回復は交渉によってもたらされる。妹リー・バンと従者ラエグを介し、クー・フーリンは異界の島へ渡ってファンドの敵と戦うことを渋々承知した。戦のあと、二人は恋仲となる。
しかし関係は続かない。英雄の妻エウェルが、短剣を帯びた女たちを率いて二人を襲いに来る。ファンドはエウェルが自分に劣らぬ器量であること、そしてこの恋が二人を苦しめていることを見て取り、一篇の詩を唱えて身を引き、夫マナナンのもとへ帰った。マナナンが二人のあいだで霧の外套を振ると、クー・フーリンとファンドは互いを思い出せなくなる。クー・フーリンとエウェルもまた、ドルイドの調えた忘却の酒を飲んだ。
図像と象徴
古代の図像はなく、視覚像も伝わらない。本サイトも主画像を掲げない。
伝承上の標識は鳥と鎖である。二羽ずつ銀の鎖でつながれた異界の鳥の群れという形象は、オェングスが夢の乙女カールを見出す場面にも共通し、異界の女が人の世に姿を見せるときの定型といえる。そのなかで彼女と妹だけが金の鎖で結ばれているという一点が、身分の高さを示す。
もう一つの標識は、夫の振る霧の外套である。マナナンの領分である霧が、ここでは記憶を断つ働きをする。関係を終わらせるのが剣ではなく忘却であるところに、この物語の温度がある。
系譜と関係
夫はマナナン・マクリル。父はアド・アブラト、妹はリー・バン、兄弟にアンガスの名が挙がる。ジェイムズ・マキロップは、母をしばしば森の女神フリダスとする伝えを紹介し、また異本では彼女をラブラドの敵エオヒド・イウルの妻とする、と記す。
マナナンの娘とされる黄金の髪のニーヴとは性格が重なり、ニーヴをファンドの娘とみる推測もあるが、確証はない。同じくマナナンの娘とされるクリーナとの関係も、初期の資料では一貫しない。
文化的足跡
『クー・フーリンの病臥』は、英雄譚でありながら女たちの選択が筋を決める点で早くから注目されてきた。ウィリアム・ラーミニーの詩集『ファンド、その他の詩』(1892年)、アーノルド・バックスの交響詩《ファンドの庭》(1916年)はいずれもこの物語に材を取る。W・B・イェイツの戯曲『エウェルのただ一つの嫉妬』(1919年)も同じ場面を扱っており、ケルト復興がこの三角関係を好んだことを示している。