デヒテラ
デヒティネ · デヒテル · デヒチネ
アイルランド神話のクー・フーリンの母。神ルーの子を宿し、三度の懐妊を経てセタンタを産んだと語られる。
解説
概要
デヒテラ(Deichtine)は、アルスター物語群に登場する女性で、英雄クー・フーリンの母である。夫はスアルタム・マク・ロイヒだが、子の真の父はルーであるともいう。
アルスター王コンホヴァル・マク・ネサの妹とされることも、娘であり御者であるとされることもある。『クー・フーリンの誕生』の二つの稿本で、その位置は入れ替わる。
神話・物語
古い稿本では、彼女は王の娘にして御者である。魔法の鳥の群れがエウァン・ワハに降りて草を食い尽くしたため、アルスターの人々は戦車を連ねてこれを追った。日が暮れ、雪が降りはじめる。宿を求めた一行は一軒の家に迎え入れられた。主の妻は産気づいており、デヒテラが出産を助ける。同じ夜、外の牝馬が二頭の仔馬を産んだ。
翌朝、目覚めた一行はブルー・ナ・ボーニャの塚の上にいた。家も主も妻も消えており、赤子と二頭の仔馬だけが残っている。彼女はその子を養い子として連れ帰った。
まもなく子は病んで死ぬ。悲しむ彼女が水を飲んだとき、小さな生き物が杯から口へ跳び込んだ。眠ったところにルーが現れ、あの夜の家の主は自分であり、いま汝の胎にいるのが自分の子だと告げる。この懐妊は醜聞となった。彼女はスアルタムと婚約していたうえ、王の子ではないかと囁かれたためである。婚礼の夜、他人の子を宿していることを恥じた彼女は胎の子を潰し、処女のごとくなって夫の床に就き、あらためて身ごもって男児を産んだ。子はセタンタと名づけられる。
同じ子が三度宿されるというこの筋立ては、生まれてくる者が並の人間ではないことを示す仕掛けとして読まれてきた。後代の、より広く知られた稿本では話はずっと簡素である。彼女はコンホヴァルの妹であり、エウァン・ワハから姿を消す。鳥を追った一行が同じ家にたどり着くと、産気づいている女は彼女自身であった。翌朝、家とルーは消え、彼女と赤子だけが残る。一行はエウァン・ワハへ戻り、彼女はスアルタムと結婚した。
生まれた子の養育は一人には託されなかった。賢者モランの裁定により、王コンホヴァル、判官センハ、富者ブラーイ、戦士フェルグス・マク・ロイヒ、詩人アヴェルギンとその妻フィンホーヴが分担する。子はアヴェルギンの家で、フィンホーヴの子コナル・ケルナハとともに育った。
図像と象徴
古代・近代を通じて定型の図像はなく、当サイトも主画像を掲げない。
この人物に結びつく標識は、雪と、消える家と、二頭の仔馬である。仔馬は同じ夜に生まれ、のちにリアフ・ワハとドゥヴ・シャングレンとして英雄の戦車を牽く。人の子と馬が同じ夜に生まれて生涯の伴となるという配置は、ウェールズの『マビノギ四枝』第一枝がプリデリの誕生に用いた型と同じである。
系譜と関係
夫はスアルタム、子はクー・フーリン。コンホヴァルの妹とも娘ともされ、系譜資料ではカフバズの娘、母はオェングスの娘マガとする伝えもある。その場合、姉妹のフィンホーヴがコナル・ケルナハの母、もう一人の姉妹がノイシュら三兄弟の母となり、物語群の主要人物がひとつの家系に収まる。
資料ごとの揺れは大きい。王の妹か娘か、御者か否か、鳥を追う側か追われる家にいる側か——写字生たちはこれらを調整しなかった。神の子をどう書くかという難題に、それぞれの稿本が別の答えを出した跡といえる。
文化的足跡
三度の懐妊という筋立ては、比較神話学の関心を集め続けてきた。処女懐胎と重ねる読みもあるが、この物語が伝わったのはキリスト教下のアイルランドであり、写字生がその含みを意識しなかったとは考えにくい。同時に、胎児を潰して処女に戻るという描写は、後代の再話ではほぼ例外なく省かれる。レディ・グレゴリーの再話をはじめ、近代の読者に届いたのは簡素な後代版のほうであった。