アイトラー
アイトラ · アイトラー · Aithra
トロイゼーンの王女でテーセウスの母。息子に剣と履物を託し、のちにヘレネーの侍女としてトロイアまで連れて行かれた。
解説
概要
アイトラー(Αἴθρα / Aithra)は、トロイゼーン王ピッテウスの娘で、テーセウスの母である。名は「澄んだ空」を意味する。
彼女の生涯は、二人の英雄に挟まれている。前半では息子を育てて送り出す母であり、後半では他人の家に仕える老いた奴隷である。そして最後は孫たちに救い出される。母から捕囚へ、そして孫による救出へという展開は、ギリシア神話の女性の生涯としては例が少ない。
神話・物語
子のできないアイゲウスが神託の意味を尋ねに来たとき、父ピッテウスはその意を悟り、客を酔わせて娘と交わらせた。同じ夜、彼女はポセイドーンとも交わったと伝えられる。アテーナ女神に命じられて島へ渡ったところを海神に襲われたとも、夢に導かれたともいう。テーセウスの父が二人になるのはこのためであり、人間の王と海神の双方を父とする構成は英雄譚の型の一つである。
アイゲウスは去るにあたって大岩の下に剣と履物を隠し、子が自力で持ち上げられるようになったら寄越せと告げた。彼女は息子を育て、十六歳のときに岩の場所へ連れて行く。息子が父の証しを取り出し、陸路をアテーナイへ向かうのを見送った。
後半の物語は思いがけない方向へ進む。テーセウスとペイリトオスが幼いヘレネーを攫い、アピドナに預けたとき、その世話を任されたのが彼女であった。二人が冥界へ下っている間に、ヘレネーの兄ディオスクーロイが妹を取り返しに来る。町は落ち、彼女は妹ごと連れ去られてスパルタへ、そしてヘレネーの侍女としてトロイアまで従うことになった。息子の犯した略取の報いを、母が引き受けている。
トロイア落城の夜、孫にあたるアカマースとデーモポーン——テーセウスとパイドラーの子——が彼女を見つけ出し、解放して連れ帰った。祖母を救うために落城の混乱のなかを探すという場面は、陶画が繰り返し取り上げた主題である。
図像と象徴
本ページの主画像は前5世紀前半のアッティカ赤絵式の壺(絵師ミュソン)で、裏面に彼女を導くアカマースとデーモポーンを描く。落城のさなかの救出という主題が、ヘーラクレースとアポローンの三脚台争いという別の場面と同じ器に配されている。
前半の生涯——大岩を持ち上げる息子を見守る母——も、前5世紀の陶画に繰り返し現れる。同じ人物の二つの場面が、いずれも「見送る」「連れ戻される」という受け身の位置に置かれている点は、この人物の描かれ方をよく示している。
トロイゼーンには彼女の名を負う祭祀と、テーセウスが岩を持ち上げたと伝えられる場所があったとパウサニアースは記す。
系譜と関係
父はトロイゼーン王ピッテウス、祖父はペロプス。子はテーセウス。孫にヒッポリュトス、アカマース、デーモポーン。
なお、オーケアノスの娘のヒュアデスの母アイトラー、およびアトラースの妻とされるアイトラーは同名の別人である。
文化的足跡
『イーリアス』第3巻には、城壁の上でヘレネーに従う侍女の一人として彼女の名が現れる。テーセウスの母がトロイアの城壁にいるという一句は、アテーナイがトロイア伝説へ自国の英雄の血筋を接続するために挿入したものとみる説が古くからある。ホメーロスのテクストに後代のアテーナイ的な関心が入り込んだ例として、しばしば議論の対象になってきた。