ニョルズ
ニョルド · ニョルヅ · ニョルル
北欧神話の海と富の神。ヴァン神族の出で、航海と漁の守護者として祈られた。山を望む妻スカジと折り合わず、それぞれの故郷へ帰った夫婦の話で知られる。
解説
概要
ニョルズ(Njǫrðr)は、北欧神話の神。ヴァン神族の出身で、館ノーアトゥーン(「船着き場」の意)に住み、風の動きを支配し、海と火を鎮める。航海と漁に出るときに祈られる神であり、土地や動産の富を与える力を持つとされた。フレイとフレイヤの父である。
この神の名は、1世紀にタキトゥスが記した女神ネルトゥスと同じゲルマン祖語 *Nerþuz に遡る。千年を隔てて、同じ名の神格が女性から男性へ入れ替わっていることになる。u 語幹の女性名詞がゲルマン語で早くに失われたためとする文法上の説明と、そもそも別の存在として扱うべきだとする説がある。いずれにせよ、*Nerþuz という語形が長く生き延びたことは動かない。
神話・物語
まとまった物語は、妻スカジとの結婚である。
巨人シャツィが神々に殺されたのち、その娘スカジは武装してアースガルズへ償いを求めに来た。神々は、彼女に夫を選ばせることで手を打つ。ただし条件がついた——足しか見てはならない。スカジは最も美しい足を選び、それがバルドルであることを願ったが、選んだ相手はニョルズだった。
結婚は続かなかった。スカジは父の館スリュムヘイム(雷の家)に住みたがり、ニョルズは海の近くを望む。二人は交互に暮らすことで折り合いをつけたが、山から戻ったニョルズは、狼の吠える声が白鳥の歌に代えがたく、山々が疎ましいと嘆いた。スカジのほうは、海鳥の騒ぐ声のせいで眠れないと言う。結局スカジは山へ帰り、弓を持って獣を追い、スキーで雪の上を行く暮らしに戻った。北欧神話の神々の物語には珍しく、これは事件のない話である。相手を憎んだのでも裏切ったのでもなく、住む場所が合わなかったという理由だけで別れる。
『ロキの口論』では、ロキがニョルズを「人質としてここへ送られた者」と嘲り、ヒュミルの娘たちがその口を便器にしたと言い放つ。ニョルズは、人質に出された身であっても子をもうけたと応じる。アース神族とヴァン神族の戦争ののち、和睦の人質として交換された経緯が、ここでは弱みとして持ち出されている。『ヴァフスルーズニルの言葉』は、この神がラグナロクを生き延び、賢い者たちのもとへ帰るとする。
図像と象徴
持物も聖獣も伝わらない。この神を描いた異教期の造形も知られていない。手がかりは名だけである——ノーアトゥーンという館の名は「船着き場」を意味し、スポンジを指す古語ニャルザルヴォットルは「ニョルズの手袋」の意である。海辺の生活の語彙のなかに、この神の名が沈殿している。
図像として繰り返されてきたのは、スカジとの別離の場面である。W・G・コリングウッドが1908年の英訳『古エッダ』に寄せた挿絵《海を恋うるニョルズ》は、山中で妻が眠るかたわら、目を覚ました夫が海のほうを見つめている構図をとる。物語に事件がないため、絵にできるのはこの「見つめる」という一点だけになる。近代の北欧神話図像のなかで、これほど内面に寄った主題は少ない。
古アイスランド語で古典神話を翻訳する際、ローマのサートゥルヌスの名がニョルズに置き換えられた例がある。農耕と黄金時代の神を当てたのだろうが、海の神という属性は反映されていない。読み替えは、しばしば片方の属性だけを拾う。
系譜と関係
子はフレイとフレイヤ。母はニョルズ自身の名の伝わらない姉妹で、ヴァン神族では兄妹婚が行われていたとスノッリは説明する。妻はスカジ。『太陽の歌』はこの神に九人の娘があるとし、長女ラーズヴェイグと末娘クレップヴォルの名を挙げるが、他に典拠がない。
タキトゥスは『ゲルマーニア』第40章に、アングリイ族を含む七つの部族が大地の母ネルトゥスを崇めていたと記す。島の森にある聖車に女神が乗り、布に覆われて土地を巡り、行く先々で戦が止み武器が仕舞われる。行列が終わると車と布は湖で洗われ、洗った奴隷たちは湖に沈められた——祭儀を見た者は生かされない。この記述は、後代のスウェーデンで伝えられるフレイ像の巡行と型がよく似ている。父と子で同じ祭儀の型を共有していることになる。
地名の分布は広い。スウェーデンのニャルダヴィ、ニャルダルンダ、ノルウェーのニャルザルロゥグとニャルドエイ、アイスランドのニャルズヴィークなどが挙げられ、祭祀の広がりを示す。ノルウェーの民間習俗では、18世紀から19世紀に至ってなお「ニョル」の名で豊漁の礼が述べられていた記録がある。神話の物語が乏しい神ほど、生活のなかに長く残ることがある。
文化的足跡
スノッリは『ヘイムスクリングラ』で、ニョルズをスウェーデンの初期の王として書き直した。その治世は平和で豊作が続き、死に臨んでオーディンに捧げられたとされる。神を歴史上の王に読み替える手法は、キリスト教化後の北欧が異教の記憶を扱う定番の方法だった。
14世紀の『ハウクスボーク』に収められた誓約の文言は、指輪にかけて「フレイとニョルズと全能のアース」に誓うという形をとる。キリスト教化から数世紀を経た文書に、なお三神の名が残っている。海に出る者にとって、この神の名は最後まで手放しがたいものだったのだろう。
領分・別名
親・配偶者・子までを表示(全体はフル系図ページへ)。実線=主要伝承/点線=異伝・別系統。