クパーラ
クパロ · クパーロ · Купало
東スラヴの夏至の祭「イワン・クパーラ」に結びついた形象。17世紀の年代記が豊穣の神として記したが、現在の研究は神とは認めない。祭の名が先にあり、神が後から作られた。
解説
概要
クパーラ(Купала/Купало)は、東スラヴの夏至の祭「イワン・クパーラ」に結びついた形象である。17世紀の年代記が神として記して以来、豊穣の神として紹介されてきたが、現在の研究はこれを神とは認めない。祭の名が先にあり、神が後から作られた例として扱われる。
祭そのものは古く、今も生きている。ロシア、ウクライナ、ベラルーシ、ポーランドで、夏至前後の夜に篝火が焚かれる。「神クパーラ」と「祭クパーラ」は、切り分けて読む必要がある。
神話・物語
「イワン・クパーラ」という祭名は、洗礼者ヨハネのスラヴ語形である。ギリシア語の添え名 βαπτιστής は「浸す者、沐浴させる者」を意味し、その訳語としてスラヴ祖語 *kǫpati(水浴・清め)が選ばれた。のちに民間語源によって、祭の日に川で水を浴びる習俗と結び付け直される。つまりクパーラという語は、もともと洗礼者ヨハネの添え名であって、神の名ではなかった。
神としての初出は17世紀の『グスチン年代記』である。第五の偶像クパロは、思うに豊穣の神であり、ギリシア人のケレースにあたる、と記す。同じ年代記は、6月23日の夕、洗礼者ヨハネ誕生の前夜から刈り入れの頃まで、愚かな者たちがこの悪魔クパロの記憶を祝っていると咎める。そして続けて、男女が食べられる草や根で冠を編み、草を帯にして火を焚き、あるいは緑の枝を立て、手をつないでその火のまわりを回り、歌をうたい、火を跳び越えて悪魔に供物とするのだと書く。祭の描写としては具体的で、民俗学の資料として今も使われている。17世紀には『キエフ綱要』と『聖ウラジーミル伝』もクパラを神として挙げた。
それ以前の、クパーラ祭の記述を含む文献に、この神の名は現れない。
祭の中身はよく知られている。夜に篝火を焚き、火を跳び越え、花冠を川に流して縁を占い、薬草を摘み、咲かないはずのシダの花を探す。人形が作られ、女の衣装とリボンや首飾りを着せられて聖なる木の下に置かれ、祭の終わりに水へ沈められるか焼かれる。木にはしばしば白樺が用いられ、一度切り倒してから地面に立て直すという手順を踏む。木を調達して立てる作業は女だけが行い、男が触れることは許されなかった。
この人形の名がクパーラである。ウクライナやベラルーシの方言には、祭を先導する者を指してこの語を用いる例もある。
図像と象徴
神像はない。あるのは祭の人形である。
本項の主画像は、ポーランドの画家ヴォイチェフ・ゲルソンが1897年に描いた「聖ヨハネの夜の祭」で、篝火を囲む人々を描く。第二次大戦中にポーランドから持ち去られ、現在も行方が分かっていない。19世紀末の想像による復元であるが、描かれているのは神ではなく祭であり、その点でクパーラの実態に近い。同時代にはマシェクの『クパロ』(1914年)などもある。
火と水が同じ夜に並ぶこと——篝火を跳び越え、そのあとで川に入る——は、この祭のもっとも目を引く特徴である。祭の名が水浴に由来しながら、視覚的な中心は火にある。
系譜と関係
系譜はない。争われているのは、この形象を神と呼べるかどうかである。
トポロフは、ヤリーロ、クパーラ、ポグヴィズド、ラダ、ポレルなど後代の史料にのみ現れる形象を、神とは認められないとした。トポルコフはクパラを民間の祭の名にすぎないとし、ウルバンチクは「神話学者が執拗に真実として支持してきた文学的虚構」と評した。ピトロとヴォカーチ、イヴァニツは、神ではなく祭に用いられる儀礼上の人形あるいは役柄と見る。
17世紀の年代記がクパロをケレースに擬したのは、スラヴの習俗を古典の枠に嵌めて説明する当時の慣わしに従ったからである。同じ処理は『ポーランド年代記』のドゥウゴシュにも見られ、そこではモレーナがケレースに、デヴァナがディアーナに当てられている。
ベロボーグ、ヤリーロ、コリャダとともに、クパーラは「疑似神格(pseudo-deity)」の代表例として扱われることが多い。近年はゾキオスのように、クパーラとコリャダを並べてスラヴ疑似神話の実例として論じる研究も出ている。
文化的足跡
イワン・クパーラの祭は今も広く行われている。ゴーゴリの短編「イワン・クパーラの前夜」(1830年)はこの祭を舞台にし、ムソルグスキーの管弦楽曲『禿山の一夜』も、もとは「聖ヨハネの夜、禿山にて」と題されていた。夏至の夜に魔物が集うという着想は、この祭の周辺から出ている。
日本でも、在日ウクライナ人コミュニティによる「クパーラ祭」が催されている。
現代のスラヴ新異教運動(ロドノヴェーリエ)では、クパーラは水と火の神とされ、コストロマと対をなす兄妹神として説かれる。これらはいずれも近代の構成である。祭のほうは五百年以上さかのぼれるのに、神のほうは四百年しかさかのぼれない——クパーラを読むときに、まず確かめておくとよい順序である。