カルカース
カルカス · カルカース · Kalchas
トロイア戦争におけるギリシア方の予言者。イーピゲネイアの犠牲を告げ、木馬の作戦を保証した。自分より優れた予言者に会って死んだ。
解説
概要
カルカース(Κάλχας / Kalkhās)は、トロイア戦争でギリシア連合軍に従軍した予言者である。予言者イドモーンの孫テストールの子であり、メラムプースの家系に連なる。
『イーリアス』は彼を「あるかぎりの鳥占い師のうち最もすぐれた者」と呼ぶ。ただし彼が作中で果たす役割は、神意を告げて指揮官と衝突することであり、正しさが常に軍の不利益として現れる。予言者と権力の関係を最も冷徹に描いた人物といえる。
神話・物語
アウリスに軍が集結したとき、祭壇の下から現れた大蛇が雀の雛八羽と母鳥を呑み込み、石と化して落ちた。彼はこれを、九年戦って十年目に勝つという徴と読んだ。戦争の長さがあらかじめ告げられていたことになる。
出航が叶わなかったとき、彼は原因をアルテミスの怒りに帰し、アガメムノーンが娘イーピゲネイアを犠牲に捧げないかぎり風は吹かないと告げた。総大将は娘をアキレウスの妃にすると偽って呼び寄せた。女神は最後に娘をさらい、代わりに牝鹿を置いたとされる。
『イーリアス』冒頭の疫病の場面では、彼は語る前に身の安全の保証を求める。アキレウスが守ると誓ってはじめて、原因がアガメムノーンによる神官の娘の拘留にあると明かした。予言者が真実を語るために保護を必要とするという構造は、テイレシアースとオイディプースの場面と同じ型である。
戦争の後半では、ネオプトレモスの参戦、ピロクテーテースの復帰、トロイア方の予言者ヘレノスの捕獲を進言し、木馬の作戦がトロイア陥落を導くことを保証した。反対する者があってもゼウスの雷が彼の側を示したという。
最期も予言による。自分より優れた予言者に出会ったときに死ぬと告げられていた彼は、戦後コロポーンで予言者モプソスと技を競い、いちじくの実の数と孕んだ豚の腹の子を言い当てられて敗れた。落胆して死んだという。予言者の物語が予言者との勝負で閉じられる構成である。
図像と象徴
彼が現れるのは、ほぼイーピゲネイアの犠牲の場面である。本ページの主画像は、ポンペイの「悲劇詩人の家」の壁画で、運ばれる娘の右に刀を手にして立つのが彼、左で頭を覆って嘆くのがアガメムノーンにあたる。空にはアルテミスと、身代わりの牝鹿が現れている。
この構図はギリシアの原画に遡るとされ、告げる者・耐える者・介入する神という三層を一枚に収めている。予言者が刀を持って描かれる例は多くないが、彼の場合は自ら祭祀を取り仕切ったと伝えられるためである。
エトルリアでは Chalchas の名で受容され、青銅鏡に肝臓占いを行う有翼の姿として刻まれた。ギリシアの鳥占い師が、エトルリアの内臓占い師の姿に置き換えられている。
系譜と関係
父テストール、祖父はイドモーンの子。兄弟にレウキッペーとテオノエー。ミュケーナイあるいはメガラの人とされる。
メラムプースの家系という点で、アムピアラーオス、ポリュイードス、テオクリュメノスと同じ血筋に属する。血によって伝わる予言の家という発想が、トロイア伝説にまで及んでいる。
文化的足跡
中世以降、彼の名はトロイア物語の翻案のなかで大きく姿を変えた。ベヌア・ド・サント=モールの『トロイア物語』では、彼はトロイア側の神官でありながらギリシア方へ寝返る人物とされ、その娘クリセイダをめぐる物語が生まれる。これがボッカッチョ、チョーサー『トロイルスとクリセイデ』、シェイクスピア『トロイラスとクレシダ』へと受け継がれた。古代の彼にはない娘が、中世の創作によって与えられたことになる。