アウズンブラ
アウズフムラ · アウズムラ · アウドムラ
北欧神話の原初の牝牛。氷の滴から生じ、四条の乳で巨人ユミルを養った。塩気を帯びた霜の石を三日舐め、そこから神々の祖ブーリを掘り出した。
解説
概要
アウズンブラ(Auðumbla)は、北欧神話の原初の牝牛。世界が形をとる前、氷の滴からユミルとともに生じ、その四条の乳が巨人を養った。同時に、塩気を帯びた霜の石を舐めて神々の祖ブーリを氷から掘り出した。
伝えるのは『スノッリのエッダ』のみである。『古エッダ』はこの牝牛に一言も触れない。スノッリが失われた伝承を持っていたのか、自ら物語を整えたのかは決着していない。北欧神話の創世譚のなかで、この牝牛はいわば接合部にあたる——巨人族と神族という敵対する二つの系統を、一頭の家畜が同時に養い、産み出している。
名は「乳の豊かな角なし牛」と読むのが通説で、古ノルド語の auðr(富)と *humala(角のない)からなる。北欧では先史時代から角のない牛が飼われており、スコットランド英語の humble-cow(角なし牛)にも同じ語が残る。ただし auðr は「運命」とも「荒地・不毛」とも読める語で、そう取れば「荒地を滅ぼす者」の意にもなる。この曖昧さは意図されたものかもしれない。
登場する物語
『ギュルヴィたぶらかし』の一場面がすべてである。
聞き手ギュルヴィが、ユミルはどこに住み、何を食べていたのかと問う。答えは、アウズンブラの乳房から四条の乳の川が流れ、それを飲んでいた、というものである。ではその牛は何を食べたのか。塩気を帯びた霜の石を舐めていた、と語り手は答える。
そして三日が語られる。一日目に舐めた石から人の髪が現れ、二日目に頭が、三日目に全身が現れた。こうして出てきた男がブーリで、大きく、力強く、見目麗しかった。その子ボルが女巨人ベストラと交わって生んだのが、オーディン・ヴィリ・ヴェーの三兄弟である。三兄弟はやがてユミルを殺し、その死体から世界を造った。
つまりこの牝牛は、殺される者と殺す者の両方を世に送り出している。片方は乳で養い、もう片方は氷から掘り出した。しかもそれを、ただ空腹を満たすためにしている。世界の始まりを、意志を持たない一頭の獣の食事が決めたことになる。
もう一つの言及は『詩語法』の名詞一覧(ナヴナスュルル)で、牛の言い換えを並べるなかに名が挙がり、「牛のなかで最も高貴なもの」と付記される。名を持つ牛はここでこの一頭だけである。
図像と象徴
異教期の造形は知られていない。図像として現れるのは、17〜18世紀のアイスランド語写本からである。SÁM 66(1765–66年、ヤコブ・シグルズソン筆)は、氷の塊を舐める牝牛と、そこから現れかけたブーリの姿を描く。
18世紀末以降、この主題は北欧の近代美術に取り上げられた。デンマークのニコライ・アビルゴーは1777年、乳房に吸いつくユミルと氷を舐める牛を一枚に収めた油彩を描いている。乳を吸う巨人と、氷から人が現れる場面を同時に描けるため、創世の全体を一枚で示せる主題として好まれた。
象徴としては、乳が要である。牝牛は角を持たず、闘わず、ただ与える。その与えるという性質だけで、この存在は世界の起点になっている。
関わる神格・伝承
養ったのはユミル、掘り出したのはブーリ。両者は世界の二つの系統——ヨトゥンとアース神族——の祖にあたる。
牛や牝牛が創世に関わる例は各地にある。ルドルフ・ジメクは、エジプトのハトホル(牝牛の頭を持つ)やイシス、ギリシアで「牛の目の」と形容されるヘーラーを比較に挙げる。ゾロアスター教のガウ・アエーウォーダータ(原初の牛)、ヒンドゥーの願いを叶える牝牛カーマデーヌも同じ枠で語られる。タキトゥスは『ゲルマーニア』に、ゲルマン人が角のない牛を飼い、女神ネルトゥスの像を牛に曳かせて巡らせたと記した。北欧神話の牝牛が、ゲルマン語圏の古い層に属する可能性はある。
ただし、これらを一つの祖形に還元できるわけではない。牛が乳を出す家畜であることは、どの牧畜社会でも同じであり、独立に同じ着想が生まれても不思議はない。
文化的足跡
物語が一場面しかないため、後世の創作にはあまり引き継がれなかった。19世紀の北欧ロマン主義がこの主題を絵画に取り上げたのが、ほぼ唯一の広がりである。
それでも、この牝牛は北欧神話の構造を考えるうえで無視できない。世界が死体から造られたという設定はよく知られているが、その死体を育てたものが何であったかまで遡ると、そこにいるのは怪物でも神でもなく、氷を舐めている一頭の牛である。