ベストラ
ベストラ · Bestla
北欧神話の女巨人で、ボルとのあいだにオーディン、ヴィリ、ヴェーを産んだ母。オーディンは詩のなかで繰り返し「ベストラの子」と呼ばれる。
解説
概要
ベストラ(Bestla)は、北欧神話の女巨人である。ボルとのあいだにオーディン、ヴィリ、ヴェーの三兄弟を産んだ。スカルド詩と『古エッダ』の双方で、オーディンはしばしば「ベストラの子」と呼ばれる。
名の意味は定まらない。「妻」あるいは「樹皮、靭皮」といった解釈が提示されてきた。Bastilōn(もとは「靭皮を与える者」で、イチイの女神だったか)に遡るとする説、古フリジア語 bös(婚姻、結合、もとは「妻」)に連なる Banstillōn から中間形 *Böstla を経たとする説がある。ルドルフ・ジメクは、意味が判然としないこと自体が「この名がきわめて古い」ことを示すと述べる。
登場する物語
彼女に固有の物語はない。伝わるのは系譜と、ひとつの示唆的な言及だけである。
『ギュルヴィたぶらかし』は、高き者がギュルヴィにオーディンの系譜を語るなかで、彼女を巨人ベルソルンの娘、ボルの妻として紹介する。『詩語法』では、スカルドのエイナル・ヘルガソンの詩がオーディンを「ベストラの子」と呼ぶ。
『ハーヴァマール』第140節に、オーディンが「ベルソルンの子、ベストラの兄弟」から九つの呪歌を学んだという一節がある。母方の叔父から呪術を授かったという読みが可能で——ただし『ハーヴァマール』のこの節は、ベルソルンをベストラの祖父とする系譜を前提としているようにも読める。ヘンリー・アダムズ・ベロウズは、この節の位置そのものが写本の錯簡によるもので、意味は不明瞭だと注記している。
図像と象徴
図像はない。像も持物も姿の描写も伝わらず、本サイトも主画像を掲げない。
象徴として意味を持つのは、その存在が示す血統のほうである。オーディンは母方から巨人の血を引く。したがって彼と兄弟によるユミルの殺害——世界の創造にほかならない行為——は、身内殺しということになる。ジョン・リンドウはこれを「母方の縁者の殺害、あるいは否認」と呼んだ。神々と巨人が敵対する体系のなかで、その最も根本的な対立の起点に婚姻関係が置かれている。
ヴァルトラウト・フンケは、ベストラを世界樹の樹皮とみなし、オーディンがそこで生まれたのではないかと論じた。『ハーヴァマール』第141節の「それから私は実り始めた」という句を手がかりとする解釈である。名の「靭皮」説に沿った読みだが、推定の域を出ない。
関わる伝承
夫はボル(ブーリの子)、子はオーディン、ヴィリ、ヴェー。父は巨人ベルソルンとされるが、『ハーヴァマール』の系譜では祖父にあたる。
『ハーヴァマール』第140節の「名の伝わらぬ兄弟」をミーミルとみる説がある。もしそうなら、ミーミルはオーディンの母方の叔父ということになり、切り離された首がオーディンに助言を与え続けるという関係にも血縁の意味が加わる。ただし文献はこれを明示せず、仮説にとどまる。
文化的足跡
ベストラは、神話の登場人物としてよりも、系譜上の一点として記憶されてきた。「ベストラの子」というオーディンのケニングがスカルド詩に定着したことで、名だけが繰り返し唱えられ続けたのである。
19世紀以降の神話学は、この空白に意味を与えようとしてきた。樹皮の女神、イチイの女神といった解釈はその産物である。現代の翻案でも、彼女はもっぱらオーディンの母という一語で登場する。名は古く、物語は残らなかった。
領分・別名
親・配偶者・子までを表示(全体はフル系図ページへ)。実線=主要伝承/点線=異伝・別系統。