ブリーセーイス
ブリセイス · ヒッポダメイア · Briseis
イーリアスの重要人物。アキレウスに与えられたのちアガメムノーンに奪われ、その争いが叙事詩の筋を起動する。名は「ブリーセウスの娘」を意味する父称である。
解説
概要
ブリーセーイス(Βρισηΐς、「ブリーセウスの娘」)は、ホメーロス『イーリアス』の重要な人物である。ヒッポダメイアの名でも知られる。
地位の象徴としてのその役割が、叙事詩の筋を起動するアキレウスとアガメムノーンの争いの核心にある。
リュルネッソスの王の子ミュネースに嫁いでいたが、アカイア人が町を落とし、詩の出来事の直前にアキレウスへ与えられた。彼女をアガメムノーンに渡すことを強いられたアキレウスは、戦線への復帰を拒む。
神話・物語
『イーリアス』における身体の描写は、他の脇役と同じく最小限である。偉大な美をたたえるために詩人が用いる定型の形容がなされるのみで、その容貌は聞き手の想像に委ねられている。美しさは女神たちのそれに比される。
その姿が具体的に描かれるのは、二千年ののちである。ビザンツの詩人ヨハンネス・ツェツェース、フリュギア人ダレス(おそらく5世紀)、マラーラス——いずれも後代の著述家が、それぞれに容貌を書き加えた。ダレスは「美しく、小柄で金髪、柔らかな黄色の髪。眉は美しい両眼の上でつながり、均整のとれた身体。魅力があり、親しみやすく、慎ましく、率直で敬虔」と記す。
物語における位置は明確である。父はブリーセウス、母の名は伝わらない。三人の同母の兄弟はリュルネッソス陥落の際に死んだ。夫ミュネースもアキレウスに討たれる。
アガメムノーンに奪われたことでアキレウスは戦を退き、その不在がギリシア軍に多大な損害をもたらした。パトロクロスの死ののち、アガメムノーンは彼女を返し、手を触れなかったと誓う。
図像と象徴
本サイトが掲げるのは、アッティカ赤絵式の杯である(オルトス画、前6世紀末)。アキレウスとブリーセーイスを描く。
名が示すのは所属である。ブリーセーイスとは「ブリーセウスの娘」を意味する父称であり、固有名ではない。この人物は、父の名と、そして帰属先の男の名によってのみ呼ばれる。
叙事詩の最初の一行が「アキレウスの怒り」を歌うと宣言し、その怒りの原因がこの女性の移動である。物語全体を動かすのが、名を持たない——父称でしか呼ばれない——人物の帰属をめぐる争いである点は、繰り返し論じられてきた。
関わる神格・伝承
父はブリーセウス、夫はミュネース、のちアキレウス、そしてアガメムノーンに奪われる。
同じくアキレウスの捕虜であったディオメーデーや、アガメムノーンの捕虜クリューセーイスと並べて語られる。クリューセーイスの返還がアガメムノーンにブリーセーイスを求めさせるという連鎖が、争いの発端である。
文化的足跡
近代において、この人物は繰り返し主題化されてきた。とりわけ21世紀に入って、『イーリアス』を彼女の視点から語り直す試みが相次いでいる。パット・バーカー『女たちの沈黙』(2018年)が代表的である。
日本語圏では、アキレウスとアガメムノーンの争いの原因として名が挙げられる程度である。しかし叙事詩の冒頭が宣言する「怒り」の起点にいるのがこの人物であることは、作品の構造を考えるうえで見過ごせない。