ストリボーグ
ストリーボグ · ストリボグ · Стрибогъ
東スラヴの三つの文献にしか名の現れない神。『イーゴリ遠征物語』が風を「ストリボーグの孫たち」と呼んだことから風の神とされるが、職能を直接記した資料はない。
解説
概要
ストリボーグ(Стрибогъ / Stribog)は、スラヴ神話の神である。名が確実に現れるのは東スラヴの三つの文献にかぎられ、そのいずれもが職能を語らない。今日ふつう風の神とされるのは、資料の記述ではなく、後世の解釈にもとづく。ポーランドやポメラニアにも同根とみられる地名が残っており、西スラヴにも信仰が及んでいた可能性が指摘されている。
この神について書けることの大半は、「何が書かれていないか」である。以下では、まず三つの記録を確かめ、次にそこから何がどう推し量られてきたかを追う。
神話・物語
最初の言及は12世紀初頭の原初年代記である。980年の条、ウラジーミル1世がキエフの丘に立てさせた偶像の一覧に、ペルーン、ホルス、ダジボーグ、シマルグル、モコシと並んでストリボーグの名が挙がる。年代記はそれらへの供犠を非難し、988年の受洗にあたって偶像が倒された次第を続けて記す。名前の羅列より先の情報はない。
二つめが、12世紀末のイーゴリ遠征物語である。ポロヴェツ軍との戦いの場面で、海の方から矢のように吹きつける風が「ストリボーグの孫たち」と呼ばれる。風との結びつきは、事実上この一行だけに立っている。
ただしこの句には注意がいる。同じ作品はルーシの人々を「ダジボーグの孫」とも呼んでおり、「誰それの孫」は血統というより「その神に属する者」を指す慣用であった可能性がある。しかもこの場面で、風はイーゴリ軍に味方せず、敵の側から吹きつける。自軍の神が自軍を撃つのは奇妙だとして、ストリボーグを本来スラヴの神ではないとみる説、あるいは荒ぶる神とみる説が出されてきた。いずれも推測の域を出ない。
三つめは、11世紀以降に写された『聖グリゴーリイ講話』である。4世紀の東ローマの説教をスラヴ語へ訳す際、訳者たちが自分の土地の異教的慣習への非難を本文に書き足していったもので、ストリボーグ、ダジボーグ、ペレプルートを信じ、角杯をあおって浮かれ、天地を造った神を忘れて偶像に喜ぶ者たちが名指しされる。異教を叩くための文章が、結果としてその神名を今日に伝えた。スラヴ神話の資料はほぼすべてこの構造をもつ。
物語はない。系譜も、配偶者も、事績もない。
図像と象徴
確実にストリボーグを表した古代・中世の遺物は知られていない。スラヴの神々に共通する事情であり、この神にかぎった欠落ではない。
したがって象徴を読む手がかりは、名そのものしかない。語源の議論は大きく二つに分かれる。
ロマーン・ヤコブソンは、語幹 stri- をスラヴ祖語の動詞 sterti(拡げる、撒き散らす)に、さらに印欧祖語の語根 ster-(ラテン語 sterno、ギリシア語 στόρνυμι と同根)に遡らせた。これに bog(神)が付いて「撒く神、富を配分する神」となり、「富を与える神」と解されるダジボーグと補い合う一対をなす、と考えた。ヴェーダのバガとアンシャ、ギリシアのアイサとポロスに比せられる関係である。風との結びつきについては、『アヴェスター』の風の神ヴァーユが自ら「拡げる者」と名乗る点を傍証とした。この説はもっとも広く受け入れられている。
もう一方は、ウクライナ語の стрибати(跳ぶ)に結びつける説である。アレクサンデル・ブリュックナーはヤコブソンの分析を根拠薄弱として退け、スヴァローグと同型の -og 接尾辞を見て「跳ぶ神」と読んだ。近年ミハウ・ウチンスキがこれを引き継ぎ、語幹を *stry-(流れる、速く動く)に置いて、リトアニア語 sraujùs、ラトヴィア語 stràujš(速い)との対応を示した。キリスト教化ののちこの神名が主として水名に残った事実は、この読みを支える。
本ページの図版は、ゲオルク・アンドレアス・シュロイジング『モスクワ人の古今の宗教』(アムステルダム、1698年)の銅版画である。西欧の読者にルーシの「偶像崇拝」を説明するために制作されたもので、ペルーン、モコシ、ホルスと並んでストリボーグが配される。ただし造形の下敷きは古典古代の神像であって、スラヴの図像資料ではない。どの人物がどの神かという割り当ても、後代の注釈に頼っている。あくまで17世紀の西欧人が思い描いた姿として見るべきものである。
系譜と関係
親も子も配偶者も伝わらない。関係が語れるのは、同じ一覧に名を連ねた神々とのあいだだけである。
ダジボーグとの対については、ヤコブソンの語源説を土台に「配る神」と「与える神」の組と見る理解が広く行われている。魅力的な整理だが、両神を並べて語る原典は存在しない。ウラジーミルの偶像一覧に共に名があること、『イーゴリ遠征物語』が両者について「孫」の語を用いることが根拠のすべてである。
同じ一覧のホルスとシマルグルにいたっては、名と、イラン語起源とみられる語形のほかにほとんど何も残らない。ウラジーミルのパンテオンは、統一された神統譜の記録ではなく、キエフの支配を固めるために諸部族の神を並べた政治的な構成物だった可能性が高い。ストリボーグをその一柱として読むなら、この神が誰の神であったのかという問いが先に立つ。
キリスト教化後、名は地名と水名に残った。ノヴゴロド県のストリボジ、キエフ県のストリボジェ、ジトーミル州のストリボジ村、ポーランドのストシボガ村、そして1282年に記録されたグダンスク近郊のストリボツ川。名が広い範囲で知られていた証しである。
文化的足跡
19世紀以降、この空白は繰り返し埋められてきた。セルゲイ・コネンコフは1910年に木彫《ストリボーグ》を制作しており、トレチャコフ美術館に収まっている。ロシア象徴主義が古代スラヴに求めたものの一例である。現代のロドノヴェーリエでは風と大気を司る神として位置づけられ、絵画やゲームに描かれるストリボーグはたいてい老いた風の主の姿をとる。
いずれも三つの記録が語らなかった部分を、後世が埋めた像である。原典に立ち返れば、確かなのは、キエフの丘にその偶像が立っていたこと、風が「その孫たち」と呼ばれたこと、そして角杯を回す者たちがその名を口にしたことの三点にとどまる。