九尾の狐
九尾狐 · 九尾狐狸 · きゅうびこ
九本の尾をもつ狐の霊獣。『山海経』に見え、中国では聖王の世に現れる瑞獣とされた一方、殷の妲己や日本の玉藻前など、傾国の美女の正体としても語られる。
解説
概要
九尾の狐(きゅうびのきつね、九尾狐)は、中国に伝わる九本の尾をもつ狐の霊獣である。その来歴は一様ではない。史書のなかでは太平の世や明君の治世に現れる瑞獣として記録される一方、物語のなかでは美女に化けて国を傾ける妖怪の正体とされる。この善悪二つの相が並び立ったまま東アジア各地に伝わったところに、この獣の特異さがある。
瑞獣としての九尾狐
古い記述例は『山海経』南山経にある。青丘の山に狐に似て九本の尾をもつ獣がおり、嬰児のような声で鳴き、よく人を食らうが、これを食べた者は蠱(こ)に当たらない、という。人を食う獣でありながら、同時に邪を退ける霊験を帯びているのである。
漢代の『白虎通』は、九尾狐を、時の君主の徳が高いときに現れる瑞獣の一つに数え、「九」という数を子孫繁栄の象徴と解する。王朝の史書でもその出現は祥瑞として記録された。『呉越春秋』は、夏王朝の始祖・禹が三十歳になっても妻を娶らずにいたころ、塗山で九尾の白狐に出会い、これを王者となる証と解して塗山氏の娘・女嬌を娶った、と伝える。始祖の婚姻という王権神話の要となる場面に、この獣が立ち会っている。
日本にも瑞獣としての理解は伝わった。『延喜式』治部省式の祥瑞条は「九尾狐」を挙げ、神獣であり、その形は赤色あるいは白色、声は嬰児のようだと記す。
妲己と、妖狐への転回
九尾狐を悪しき存在として決定づけたのは、殷の紂王の后・妲己の物語である。元代の『武王伐紂平話』、明代の『春秋列国志伝』、そして『封神演義』といった通俗小説の系譜が、殷を滅ぼした妖婦妲己の正体を九尾の狐とした。史書の妲己はあくまで人であり、狐との同一視は小説が作り出した設定であるが、これらの読み物が広く流布した結果、漢字文化圏では九尾狐といえば傾国の妖狐という像が定着していく。清の光緒年間、酔月山人『狐狸縁全伝』(一八八八年)には、狐は千年の修行で尾が一本増え、一万年の修行で黒い毛が白くなる、という後代の設定も現れる。
日本での受容と玉藻前
日本で九尾狐の名を高からしめたのは玉藻前の伝説である。ただし、この二つの結合は当初からのものではない。鳥羽上皇に仕えた美女の正体が狐であったという話は十四世紀の『神明鏡』にすでに見えるが、室町期の『玉藻物語』などが描くのは尾が二本の七尺の狐であり、九尾とは明言されていない。玉藻前が九尾の狐とされるのは、妲己=九尾狐という中国小説の設定が取り込まれた江戸時代以降のことである。江戸前期には林羅山が『本朝神社考』の玉藻前の項で『武王伐紂平話』を引いており、この設定を物語として定着させたのは高井蘭山『絵本三国妖婦伝』(一八〇三〜〇五年)や岡田玉山『絵本玉藻譚』(一八〇五年)といった読本であった。
一方で、曲亭馬琴は『南総里見八犬伝』に善玉としての九尾の狐「政木狐」を登場させている。馬琴は、悪玉としての九尾狐像は『封神演義』などの物語に影響された近年のものであるとして退け、史書を援用して九尾の狐は本来瑞獣であると論じた。九尾狐の悪役化を俗説として批判する考証は、馬琴以前からくりかえし行われている。
図像と象徴
図像としての九尾狐は、狐の体に扇状に広がる九本の尾を負う姿で表される。清代の『山海経』刊本の挿図はその古典的な例で、尾を左右に押し広げた素朴な線描によって描かれる。中国では画像石や磚に、西王母の傍らに侍る三足烏・玉兎とともに九尾狐が刻まれ、仙界の吉祥の一員として扱われた。
日本の浮世絵では、九尾は妖しさを表現するための装置として発達する。歌川国芳や月岡芳年は、正体を顕した玉藻前の背後に金色の尾を炎のように立ち上げ、那須野で武士に狩り立てられる場面を大画面に構成した。田を守る稲荷神の神使としての善き狐とは対照的に、九尾狐の尾の多さは、そのまま経てきた年月と妖力の量として読まれた。
朝鮮・ベトナムへの伝播
朝鮮半島では中国の古典の影響のもとに九尾狐がクミホ(구미호)として知られる。物語のなかのクミホは美しい娘に化けて男を惑わし、その命を奪う存在として描かれることが多く、人間になることを願い、そのために人の肝や心臓を求めるという筋立てが伝わる。ベトナムでも九尾狐(Cửu vĩ hồ)が知られ、ハノイの西湖に棲んでいた九尾狐が玄天鎮武神によって退治されたという伝説が語られる。同じ獣が、地域ごとに異なる神格と組み合わされて土地の物語になっている。
文化的足跡
九尾の狐は、能・浄瑠璃・歌舞伎から近世の読本、近代の講談に至るまで日本の芸能で好まれ、現代の漫画・アニメ・ゲームにも数多く受け継がれている。もっとも、瑞獣としての九尾狐と妖狐としての九尾狐が併存してきたことは、こんにちの創作ではあまり意識されない。史書と小説とで顔が異なるこの獣を、どちらか一方に均さないことが、伝承を読むうえでの要点となる。