月の兎
玉兎 · 月兎 · 玉兔
月面の暗い模様を兎と見る、東アジアから南アジアに広がる伝承。中国では不死の薬を臼で搗く玉兎、日本では餅をつく兎として語られる。
解説
概要
月面の暗い模様を兎の姿と見る伝承は、東アジアから南アジア、東南アジアにかけて広く分布する。中国神話・道教では玉兎(ぎょくと)・月兎と呼ばれ、臼と杵で不死の薬を搗く姿で語られる。日本では同じ図柄が餅をつく兎として定着した。単一の神格ではなく、由来を異にする複数の伝承が「月の模様」という同じ対象の上で重なり合った存在である。
登場する物語
中国の系統では、月にいるものが古くから一つに定まっていない。前3世紀頃の楚辞「天問」は、月について「顧菟(こと)」が腹にあると問う。この語を兎と読むか蟾蜍(ヒキガエル)と読むかは、聞一多の論考(1933年)以来なお争われている。後漢の王充『論衡』説日篇は、月に兎と蟾蜍がいるという当時の俗説を挙げて論難しており、両者が並存していたことがうかがえる。兎が薬を搗く役を得たのは、西王母の不死の薬と、嫦娥がそれを盗んで月へ奔ったという淮南子の話に結びつけられてからである。
仏教の系統はまったく別の由来を語る。ジャータカに収められた兎の本生話では、猿・狐・兎の三匹が飢えた老人に出会い、猿は木の実を、狐は魚を差し出すが、兎だけは何も得られない。兎は火を焚かせて自ら炎に身を投じ、我が身を食物として捧げる。老人は帝釈天の姿を現し、この捨身の行を後世に伝えるため兎を月へ昇らせた。兎のまわりに見える煙のような影は、そのとき身を焼いた煙だという。この話は漢訳を経て日本に入り、『今昔物語集』などに収められた。
メソアメリカにも月の兎はいる。身を捧げた兎を神が月へ上げたという話や、月となった神の光を弱めるために兎を投げつけたという話が伝わる。捨身と月という組み合わせの一致が伝播によるものかどうかは、決着していない。
図像と象徴
後漢の画像石では、玉兎は杵を振り上げて臼に向かう姿で刻まれる。徐州の画像石「玉兎捣薬」はその代表で、西王母の周囲に配された侍者の一人として、蟾蜍などと並ぶ。前漢の馬王堆一号漢墓の帛画では、三日月のなかに蟾蜍と兎が同居し、対する太陽には烏(三足烏)が描かれる。日と月を対にし、それぞれに獣を置く構図は漢代に完成した。
唐代には月宮を主題とする銅鏡の一群があり、桂の木・蟾蜍・薬を搗く兎・嫦娥が円い鏡背に配される。日本では7世紀の天寿国繍帳の月にすでに兎が見え、鎌倉・室町の十二天像では、月天のもつ月輪の中に兎が描き込まれる。杵と臼という道具立ては東アジアで共通するが、臼の形は地域と時代で移り、日本では中央がくびれた形へ変わっていった。
関係する神格
兎が独立した神として祀られることはほとんどなく、月にまつわる神格の従者として現れる。中国では嫦娥に仕えて薬を搗き、その薬の出どころは西王母に遡る。同じ月には蟾蜍がおり、これを嫦娥の変じた姿とする説(後漢・張衡『霊憲』)もあるため、兎と蟾蜍の関係は伝承ごとに揺れる。仏教の系統では兎は釈迦の前身であり、月へ上げた側が帝釈天である。
文化的足跡
東アジアの中秋節では、月の兎は月餅や玩具の意匠として繰り返し現れ、北京の兎児爺(とじや)のような民間の造形も生んだ。日本で兎が餅をつくと考えられるようになった時期は意外に新しい。JAXAの研究(2021年)は、杵と臼の図を載せた中国渡来の書物が元禄期以降に広く出版された影響で、18世紀前半に定着したと推定する。式亭三馬が1804年の広告文で餅をつく兎に触れており、19世紀初頭には一般に浸透していた。中国の月探査計画が投入した月面車が玉兎号と名づけられたように、この兎の名は今も月に結びつけられている。