イーダース
イダス · Idas · Īdās
メッセーネーの英雄。弟リュンケウスとともにディオスクーロイと反目し、カストールを討ったがゼウスの雷に斃された。アポローンと女を争った者としても知られる。
解説
概要
イーダース(Ἴδας / Idas)は、メッセーネー王アパレウスとアレーネーの子で、弟リュンケウスとともに「アパレーティダイ」(アパレウスの子ら)と呼ばれる英雄である。ポセイドーンの子とする伝えもある。従兄弟にあたるディオスクーロイと反目し、カストールを討ったが、ゼウスの雷に斃された。
神と女を争って退かなかった人物として、ギリシア神話のなかでも際立った位置を占める。
神話・物語
エウエーノスは俊足の馬を持ち、娘マルペーッサに求婚者が現れるたび戦車競走を挑んでは破り、首を取っていた。アポローンがこの娘に思いを寄せたとき、イーダースは先んじてポセイドーンから有翼の馬が牽く戦車を借り、マルペーッサをさらった。追ったエウエーノスはリュコルマース河で追いつけず、恥じて馬を殺し河に身を投げた。以後この河はエウエーノスと呼ばれる。
メッセーネーまで逃れたところで、アポローンが娘を奪い返そうとして争いになった。人間が神に弓を引いたことになる。仲裁に入ったゼウスはマルペーッサ自身に選ばせた。彼女は、アポローンは不死であり自分が老いたときには捨てられるだろうと考えて、人間であるイーダースを選んだ。神ではなく人を選ぶ理由として老いを挙げるこの答えは、ギリシアの物語のなかでも異例の現実性を持つ。二人の娘クレオパトラーは、のちにメレアグロスの妻となる。
兄弟はアルゴナウタイに加わり、カリュドーンの猪狩りにも参加した。航海中、マリアンデュノイ人の地で予言者イドモーンが猪に突かれて死んだとき、その猪を槍で仕留めたのはイーダースである。
ディオスクーロイとの反目は、伯父レウキッポスの娘レウキッピデスに始まる。二人の娘はイーダースとリュンケウスの許婚だったが、カストールとポリュデウケースがさらって妻とした。のちに四人はアルカディアで牛を略奪する。分配を委ねられたイーダースは、牛を一頭屠って四等分し、先に自分の分を食べ終えた者が群れの半分を、次の者が残りを取ると宣言するや、自分の分と弟の分を一息に平らげた。抗議は容れられず、二人は群れをすべて連れてメッセーネーへ帰った。
報復に来たディオスクーロイとの対決で、細部は資料によって割れる。いずれの版でも、リュンケウスの鋭い目が隠れた敵を見つけ、イーダースの槍がカストールを刺す。ポリュデウケースがリュンケウスを討ち、イーダースがとどめを刺そうとしたところへゼウスの雷が落ちた。人間が神の子を殺したことへの、直接の介入である。
図像と象徴
イーダースを名指した古代の作例は少ないが、確実なものがある。デルポイのシキュオン人の宝庫のメトープには、ディオスクーロイとイーダース兄弟が牛を略奪する場面が刻まれ、銘によって人物が特定できる。前6世紀の作で、この反目の物語が古くから知られていたことを示す資料である。
壺絵ではレウキッピデスの略奪の場面に、追う側として登場することがある。ただしその場合も画面の主役はディオスクーロイであり、この兄弟は背景に退く。本項では主画像を置いていない。
系譜と関係
父アパレウス(ポセイドーンとする伝えあり)、母アレーネー。弟リュンケウス。妻マルペーッサ、娘クレオパトラー。伯父テュンダレオースの子がディオスクーロイであり、伯父レウキッポスの娘がレウキッピデスにあたる。三人の兄弟の子らが互いに争って全員が死ぬという構図になっている。
なお、ダナオスの娘たちに殺されたアイギュプトスの子の一人にも同名の人物がおり、山の精霊ダクテュロスの一人にも同名のものがいる。いずれも別の存在である。
文化的足跡
『イーリアス』第9歌は、イーダースを「そのころ地上の人間のなかで最も強い者」と呼び、アポローンに弓を向けた者として言及する。神に武器を取った人間という主題は、のちのギリシア文学がしばしば戒めとともに引く型となった。マルペーッサの選択のほうは、老いを理由に不死を退けるという逆説として、近代の詩人にも取り上げられている。