知恵の鮭
知恵の鮭 · 知識の鮭 · ブラダン・フェサ
知恵の泉に落ちた九つの榛の実を食べ、世界のすべての知識を得たとされるアイルランド伝承の鮭。その知恵は、焼いていた少年フィンの親指へ移った。
解説
概要
知恵の鮭(アイルランド語 An Bradán Feasa)は、ケルト神話、とりわけアイルランドのフィアナ伝説群に現れる魚である。知恵の泉に落ちた榛(はしばみ)の実を食べて世界のすべての知識を得たとされ、その肉を最初に口にした者に知識が移る。
移った先がフィン・マックールである。以後この英雄は、親指を噛むだけで知りたいことを知ることができた。
登場する物語
『フィンの少年時代の功業』が語る筋はこうである。知恵の泉(セガスの泉)を囲んで九本の榛の木が立ち、その実が水に落ちる。一匹のありふれた鮭がその九つの実を食べ、世界のすべての知識を得た。
詩人フィネガス(フィン・エキス)は、この鮭を七年のあいだ追い続けた。ついに捕らえると、召使いの少年——クヴァルの子フィン——に焼くよう命じ、ただし一口も食べてはならぬと言い置く。少年は鮭を返しながら焼いたが、焼け具合を確かめようと親指で触れ、跳ねた脂で火傷をした。痛みを鎮めようとその指を口に含む。鮭の知恵はすべてその一滴の脂に集まっていた。
料理を運んできた少年の目に、それまでになかった光を見たフィネガスは、鮭を食べたかと問う。少年は食べていないと答え、事の次第を話した。七年の労が他人のものになったと悟った詩人は、残りの鮭を少年に与える。こうしてフィンは世界のすべての知識を得た。
七年追った者ではなく、焼いていた者が知恵を得る。努力と報いが結びつかないこの一点が、物語の眼目である。
図像と象徴
本サイトが掲げるのは、1904年刊『アイルランド文学』第8巻に載るジャスティン・マッカーシーの挿絵である。異界にあるとされるコンラの泉を描いたもので、泉を囲む九本の榛と、落ちた実を食べる鮭が図になっている。泉の場所は海の底とも異界ともいわれ、コンラが何者であったのかも分かっていない。
榛と鮭という組み合わせが、この主題の核である。アイルランドにおいて榛の実は知の徴であり、ボアンの川の起源譚にも同じ泉と榛が現れる。水と木の実と魚を通じて知識が伝わるという発想が、複数の物語に共有されている。
鮭そのものも、アイルランド伝承では古さと知の徴である。原初の存在フィンタン・マク・ボーフラやトゥアン・マク・カリルは、長い生涯のうちで鮭の姿をとったと語られる。この鮭を「賢者」フィンタンと同一視する伝えもある。
関わる伝承
ウェールズの『タリエシン物語』(16世紀)には、詩人タリエシンが知恵を得る類話がある。こちらでも変身と、口に入れることが鍵になる。
北欧との関係を説く見方もある。ハインリヒ・ツィマーは、この挿話がノース・ゲール人を通じてスカンディナヴィアから移入されたのではないかと論じた。『ヴォルスンガ・サガ』では、レギンに頼まれてファフニールの心臓を焼いていたシグルズが、指を火傷して舐め、鳥の言葉を解するようになる。サクソ・グラマティクスの『デンマーク人の事績』第5巻にも、継母が異母兄弟のために作った蛇入りの粥を食べたエリクが雄弁と知恵を得る話がある。
民話としてはATU分類673「白蛇の肉」にあたる型で、中東欧を中心にスコットランド、アイルランド、スカンディナヴィア、バルト諸国、さらにヨーロッパの外にも分布する。ただし多くの類話で食べられるのは蛇である。鮭は、本来の蛇が置き換わったものだろうと考えられている。
文化的足跡
親指を噛んで知恵を得るという仕草は、フィンという英雄を定義する所作になった。彼がフィアナ騎士団を率いることができたのも、この鮭のためだとされる。
北アイルランドのベルファストには、1999年に置かれた《大魚》(ビッグ・フィッシュ)という陶製の彫刻がある。市の歴史を記したタイルで覆われた鮭の像で、この伝承にちなむ。知識を伝える魚という発想が、都市の記憶を担う造形に転用されている。