キシャル
キシャール · キシャッル · Kishar
エヌマ・エリシュに現れる原初の女神。「全き大地」を意味し、天を表すアンシャルと対をなす。アヌの母だが、叙事詩の冒頭に一度現れたきり姿を消す。
解説
概要
キシャル(アッカド語 𒆠𒊹、キシャール)は、バビロニアの創世叙事詩『エヌマ・エリシュ』に現れる原初の女神である。
ラハムとラフムの娘であり、その両親はティアマトとアプスーの最初の子である。女性原理として、男性原理である兄にして夫のアンシャルと対をなし、アヌの母となった。
名は「全き大地」を意味する。アンシャルが天であるのに対し、キシャルは大地を表すと考えられ、大地母神と見ることができる。
神話・物語
『エヌマ・エリシュ』に現れるのは、叙事詩の冒頭の数行のみである。そこで名を挙げられたのち、以後の物語からは姿を消す。
原初の水アプスーとティアマトの交わりからラフムとラハムが生じ、その子としてアンシャルとキシャルが生まれる。この二柱からアヌが、アヌからエアが生まれ、そこから世代が下ってマルドゥクに至る。
つまりこの女神が果たす役割は、系譜を一段つなぐことに尽きる。世界が水から天と地へ分かれていく過程を、対になる神名の連鎖として語る——それが『エヌマ・エリシュ』の冒頭部の構成であり、キシャルはその一環に置かれている。
前1千年紀の他の文献にも稀に現れ、女神アントゥと同一視されることがある。
図像と象徴
図像は伝わらず、本サイトも主画像を掲げない。原初の対の神格には、造形の伝統がない。
アンシャル(「全き天」)とキシャル(「全き大地」)という対が、この神格の性格のすべてである。天と地が名の上で対称に置かれ、その二柱から具体的な神々が生じる。抽象を対にして並べ、そこから世界を導き出すという手続きは、ヌンとナウネトをはじめとするエジプトの八柱神とも共通する。
関わる神格・伝承
父はラフム、母はラハム。兄にして夫はアンシャル。子はアヌ。
ティアマトとアプスーに始まる系譜のなかで、この女神は第三世代にあたる。第一世代が水、第二世代が泥(ラフムとラハムを泥の神格とみる読みがある)、第三世代が天と地——という段階的な分化として読むこともできる。
文化的足跡
日本語圏では、『エヌマ・エリシュ』の系譜を紹介する文脈で名が挙がる程度である。当DBでも abzu・ki・tiamat の三記事が言及しながら、受け皿がなかった。
一行しか現れない神格が、それでも名を残しているのは、系譜が世界の構造そのものを語る装置だからである。誰の子で誰の親であるかということが、この叙事詩においては宇宙論の記述にほかならない。
領分・別名
親・配偶者・子までを表示(全体はフル系図ページへ)。実線=主要伝承/点線=異伝・別系統。