エウリュディケー
エウリュディケ · エウリディーチェ · ユリディス
オルペウスの妻となった木のニュンペー。毒蛇に噛まれて死に、夫が冥界から連れ戻そうとしたが、振り返られて消えた。
解説
概要
エウリュディケー(Εὐρυδίκη / Eurydikē)は、オルペウスの妻とされる木のニュンペーである。名は「広く裁く者」ないし「広い正義」と解される。
彼女は自ら語ることも行うこともほとんどない。死に、連れ戻されかけ、そして再び失われる——三度とも他人の行為の結果である。ギリシア神話でこれほど受動的な位置に置かれながら、これほど繰り返し語られてきた人物は少ない。
神話・物語
婚礼の直後、彼女は牧人アリスタイオスに言い寄られて逃げる途中、草むらで毒蛇に足を噛まれて死んだ。ウェルギリウス『農耕詩』はこの経緯を、蜜蜂を失ったアリスタイオスが原因を尋ねる場面の内側に置いており、彼女の死は他人の物語の一部として語られる。
夫は妻を取り戻すため冥界へ下る(カタバシス)。竪琴に心を動かされたハーデースとペルセポネーは帰還を許したが、冥界を出るまで振り返ってはならないという条件を課した。地上の光が見えるところで夫は振り返り、彼女は別れの言葉を残して消える。
この結末について、古代の作者の関心はもっぱら振り返った側にあった。彼女が何を思っていたかを書いた古典は事実上ない。ウェルギリウスが与えた台詞も、自分を責めるのではなく運命を嘆く短いものである。
なお、パライパトスやツェツェースは冥界下りを合理化して解釈しており、仮死状態の彼女を竪琴の音で目覚めさせたことの比喩だとしている。神話の合理的解釈が古代からあったことを示す例である。
夫が八つ裂きにされて死んだのち、その霊が冥界で彼女と再会し、以後ともに過ごしたとする伝えもある。
図像と象徴
本ページの主画像は、アウグストゥス期のローマの大理石浮彫(ナポリ国立考古学博物館)で、前5世紀のギリシア原作の模刻とされ、パルテノンのペイディアスの弟子アルカメネスに帰する説がある。ヘルメース、エウリュディケー、オルペウスの三人が並び、彼女は夫の肩に手を置き、ヘルメースはその手首をそっと取る。
この浮彫が古代の作例のなかで際立つのは、事件の瞬間ではなく、その直前の静けさを選んでいる点である。誰も叫んでおらず、三人は視線を交わすだけで、次に何が起きるかは画面の外にある。同じ構図の模刻がローマとパリにも残り、古代を通じて繰り返し複製されたことがわかる。
これ以外の古代の作例は乏しい。彼女が単独で描かれることはない。
系譜と関係
木のニュンペー(ドリュアス)の一人とされ、両親の名は伝わらない。アポローンの子とする説もある。夫はオルペウス。
なお、ダナオスの五十人の娘の一人、アクリシオスの妻、アムピアラーオスの娘、クレオーンの妻にも同名の女性がおり、いずれも別人である。名がありふれていたことの現れといえる。
文化的足跡
オペラの歴史は彼女の名で始まる。現存する最古のオペラであるヤコポ・ペーリ『エウリディーチェ』(1600年)と、同年のカッチーニの同名作は、いずれもこの物語を扱った。以後モンテヴェルディ『オルフェオ』、グルック『オルフェオとエウリディーチェ』と続く。
二〇世紀には、彼女の側から語り直す試みが相次いだ。ヒルダ・ドゥリトル、イーディス・シットウェル、キャロル・アン・ダフィーらの詩は、沈黙してきた人物に言葉を与えるという形をとる。リルケ『オルフォイスへのソネット』とその周辺の詩篇も、振り返られた側の内面を書こうとした試みに数えられる。原典で語らない人物であることが、かえって後世の書き手を引き寄せ続けている。