ケリュネイアの鹿
ケリュネイアの牝鹿 · ケリュニティスの鹿 · ケリュネイアのヒンド
アルテミスの聖獣とされた黄金の角をもつ雌鹿。青銅の蹄をもち矢より速く走る。傷つけずに生け捕ることがヘーラクレースの第三の功業であった。
解説
概要
ケリュネイアの鹿(Κερυνῖτις ἔλαφος)は、黄金の角と青銅の蹄をもつ巨大な雌鹿である。牡牛より大きく、矢よりも速く走り、鼻から火を噴いたとも伝えられる。アルテミスの聖獣であり、これを生け捕りにして連れ帰ることがヘーラクレースの第三の功業であった。
名は、アルカディアに発してアカイアを流れるケリュニーテース川に由来するとフレイザーは述べる。パラシアの鹿、マイナロスの鹿など、呼び名は一つではない。
登場する物語
アルテミスは、パラシアの丘のふもとで五頭の見事な雌鹿が戯れているのを見つけ、四頭を捕らえて黄金の轡で自らの戦車に繋いだ。残る一頭はヘーラーの計らいで逃げおおせ、ケリュネイアの丘に住みつく。いつかヘーラクレースの試練となるように、というのである。この鹿はケリュネイアで葡萄畑を荒らし、農夫を追い散らした。
ヘーラクレースの十二功業の第三がその捕獲である。エウリュステウスは、聖獣に傷をつければアルテミスの怒りを招くと踏んで、生け捕りを条件とした。鹿は速く、ヘーラクレースは一年ものあいだ徒歩で追い続ける。オイノエーからヒュペルボレオイの地まで、そしてアルテミシオンの山まで追い、ついにラードーン川のほとりで捕らえた。
捕らえ方の伝えは一致しない。眠っているところを網で捕らえたとも、走り疲れさせて追いついたとも、川を渡る直前に矢で脚を射抜いたともいう。エウリピデスに至っては、ヘーラクレースは鹿を殺し、その供犠によってアルテミスの怒りを鎮めたとする。
帰路、アルテミスとアポローンが立ちはだかった。ヘーラクレースは、これが命じられた務めであること、鹿はまだ生きていること、務めを終えたのちに必ず返すことを説く。二神は納得して道を譲った。アルテミスを怒らせて英雄を罰させようというエウリュステウスの目論見は、こうして外れる。
図像と象徴
壺絵は捕縛の瞬間を選ぶ。大英博物館所蔵のアッティカ黒絵ネックアンフォラ(前540〜530年頃、ヴルチ出土とされる)は、ヘーラクレースが鹿を押さえ、黄金の角の一本を折り取る場面を描く。左にアテーナー、右にアルテミスが立ち会う。二柱の女神に見守られる構図そのものが、この功業の主題——聖獣に手を出すことの危うさ——を画面の上で説明している。
雌鹿に角があるという設定は、ギリシアの自然にそぐわない。この矛盾から、ウィリアム・リッジウェイは北方のトナカイ(雌にも角が生える唯一の鹿)の記憶ではないかと唱え、ロバート・グレーヴスもこれを受けた。ただし内分泌の異常によって角を生やす雌鹿は稀に実在し、ギリシアの美術にも青銅器時代以降その表現が見られる。カリマコスの『アルテミス讃歌』も角のある雌鹿を歌っており、この造形はむしろ女神と結びつく約束事であった可能性が高い。
黄金と青銅という素材の対比も定型である。角には「タユゲテーがアルテミスに捧げた」という銘が刻まれていたと伝えられ、鹿はもともと、女神に献じられた奉納物という性格をもっていた。
関わる伝承
アルテミスの聖獣であることが、この功業の難しさのすべてである。ネメアーの獅子やヒュドラーが殺すべき怪物であるのに対し、この鹿は傷つけてはならない獲物である。狩りの神の持ち物に手をかけながら、狩りをしてはならない。エウリュステウスが仕組んだのはこの二重の拘束であった。
十二功業のうち、第三から第六——この鹿、エリュマントスの猪、アウゲイアース王の家畜小屋、ステュムパーロスの鳥——はいずれもペロポネーソス半島の内側で完結する。怪物退治というより、土地を荒らす獣を除く地方の伝承がもとにあると見る研究が多い。
文化的足跡
黄金の角をもつ鹿という像は、ギリシアだけのものではない。北方ユーラシアの狩猟伝承や、東欧・中央アジアの民話にも金の角の鹿は繰り返し現れ、ハンガリーの「不思議な牡鹿」の伝承などが並べて論じられてきた。直接の系統関係が証明されているわけではないが、狩人が捕らえきれない聖なる獣という型は広く分布している。
近世以降の美術では、十二功業を一組として描く連作のなかに組み込まれるのが通例で、単独の主題になることは少ない。血の流れない功業であるため、現代の児童向けの神話集では好んで取り上げられている。