ユラン
ジラント · ジーラント · ズィラント
カザンの建都伝説に現れる翼を持つ蛇。名はタタール語で「蛇」を意味する。都を脅かす怪物として退治されながら、1730年以来カザン市の紋章として用いられている。
解説
概要
ユラン(タタール語 җылан/yılan、ロシア語 Зилант=ジラント)は、ヴォルガ中流の都市カザンに伝わる翼を持つ蛇である。名はタタール語で「蛇」を意味する普通名詞にすぎず、それがそのまま固有名になった。ロシア語のジラントもタタール語形の転写である。1730年以来、カザン市の紋章として公式に用いられ、現在はタタールスタン共和国の首都の象徴として市中のいたるところに置かれている。
本項は便宜上スラヴ神話の下に置くが、伝承の出自はテュルク系のタタールとヴォルガ・ブルガールにあり、スラヴ起源のものではない。16世紀にロシアがカザンを征服したのち、建都伝説と図像がロシア側に受け継がれ、帝国の紋章体系に組み込まれた。今日ロシアの伝承としても語られるのは、その経緯による。
姿は竜とワイバーンの中間と説明される。竜の頭、鳥の胴、鶏の脚、蛇の尾、蝙蝠あるいは鳥の赤い翼、黒い羽と鱗。タタール人自身はこれをペルシア語由来の「アジュダハー(aždahā、竜)」と呼ぶことが多く、忌むべきものと見た。イデル・ウラルの言い伝えでは、百年生き延びた蛇はアジュダハーになるという。ユランは「白蛇(Aq Yılan)」とは区別される。白蛇は蛇の王で、シャフマラ(ペルシア語 shāh「王」+mār「蛇」)とも呼ばれ、英雄譚のバートル(勇士)に助言し贈り物を与える。人に利をもたらす点で中国の竜に近い。
登場する物語
カザンにまつわる伝説は互いに食い違っており、ユランも例外ではない。竜が悪であるか益であるかさえ、話によって入れ替わる。
よく知られるのはこうである。旧カザンに嫁いだ美しい娘が、カザンカ川まで水を汲みに下りる不便を訴え、ハンに都の移転を勧めた。指した先はジランタウ(蛇の丘)。ハンは同意したが、丘には丸太のように太い蛇が群れており、その王として巨大な二つ頭の蛇ユランが棲んでいた。一方の頭は草を食み、もう一方は乙女と若者を呑んだ。魔術師の助言でハンは丘のそばに藁と木を積ませる。冬眠から出た蛇たちがその山に潜り込んだところへ、遍歴の騎士が火を放つ。蛇は焼かれ、死してなお臭気で人馬を殺したという。しかし王たるユランはカバン湖へ逃れ、時おり市民に報いを返した。別の伝えでは、逃げた先の黒い湖で精霊となり、水底に地下の国を築いてその王になったという。
逃げなかったという話もある。カザンから五十チャクルム(およそ十一キロメートル)離れた地で騎士に追いつき、これを六つに斬った。だが騎士は毒を塗った槍で竜を刺しており、ユランもそこで果てた。あるいは丘に戻って洞に住み、怯える街の上を飛んで黒い湖の水を飲んだ。人々ははじめ貢物を捧げ、のちに魔術師の力を借りて討ち取った——そう伝える話もある。
近縁の話も残る。ブルガール人がビリャルの町を開こうとしたとき大蛇に出会い、殺そうとしたが、蛇は和を乞い、アッラーに祈って翼を得て飛び去った。アラブの使節イブン・ファドラーンは10世紀のヴォルガ・ブルガールで、倒れた大木とほとんど同じ太さの蛇を幹のそばに見たと記し、危害はないと土地の人に言われている。エラブガの塔状の異教の神殿にも大蛇が棲み、ティムールの侵攻まで生き続けたという。
図像と象徴
イスラームを国教としたカザン・ハン国の時代に、翼ある蛇を紋章に用いた確かな証拠は残っていない。動物の像を作ることが避けられたためである。図像として定着するのは、1552年のイヴァン4世によるカザン征服の後である。
ロシア側はカザン・ハンの称号とともにこの図像を引き継ぎ、ロシア風に描き直した。1672年の『大帝の称号書』の一葉には、「カザンの紋章」と銘して、冠を戴き翼を広げた黒い竜が草地に立つ姿が描かれている。本項の主画像はこれである。鶏に似た二本の脚、鳥の胴、渦を巻いた蛇の尾、蝙蝠の翼という取り合わせは、紋章学でいうワイバーンの造形に近く、コカトリスの意匠も混じる。もともと「蛇」であったものが、ヨーロッパの図像規範を通ったことで竜になったわけである。1730年の勅令はカザンの紋章を「白地に、金の冠を戴く黒い蛇。翼は赤、嘴と爪は金」と定め、帝国の紋章体系に正式に据えた。1859年にはケーネの手で紋章規則に沿って描き直され、蛇の足下にあった地面が消える。1915年、イヴァン・ビリビンは『ロシア紋章学』の図版にこの竜を描いた。カザン県の郡都だったアルスク、チスト、テチューシ、ラーイシェヴォなどの紋章にも、県章としてユランが載せられている。
現代のカザン市民が思い描くユランの姿は、映画に登場する西洋のワイバーンの影響を強く受けている。もともとのタタールの想像力では、あくまで翼の生えた蛇であった。
関係する神格・退治した英雄
ユランを退治するのは神ではない。名を持たない遍歴の騎士であり、あるいは魔術師の助言を受けた人間たちである。祭祀の対象であった形跡もなく、この点で神格ではなく都市伝説の主である。
出自については見方が分かれる。歴史家グミリョフは、タタールの祖の一つキプチャクがアルタイのジェリャン渓谷から来たことに注目し、近くのジェリャン山と集落の名を白蛇に由来すると見て、カザンの竜をテュルクのトーテムの名残と考えた。ヴォルガ・ブルガールのボルガル、スヴァル、ビリャルにも翼ある蛇の伝えがあり、そこでは多くの場合、蛇は善いものであった。飛ぶ怪物の話が栄えたのは、カザン、エラブガ、チュカタウといった国境の砦である。研究者の多くは、これらの蛇が隣接する異教の民の悪しき支配者を象っていると見る。蛇を焼き払う場面をイスラームの異教に対する勝利と読む解釈もあり、ブルガール人が国境地帯の隣人を怯えさせるために意図的に流した話だとする懐疑もある。ユランの起源を白蛇ではなく、より古い時代の鷹(ボルケト)の像に求める説も出されている。
同じ東欧の竜と比べると違いが際立つ。ズメイ・ゴルィヌィチもヴァヴェルの竜も、英雄に討たれてそこで終わる怪物である。ユランは討たれたのちに都市の紋章として復活し、その都市を守る側へ回った。
文化的足跡
1560年、ジランタウの丘に生神女就寝ジラントフ修道院が建てられた。1970年代の発掘で最下層から大火の痕跡が見つかり、蛇を焼いたという伝説を思わせたが、歴史家はこれを1223年から1236年にかけての侵攻によるものと見ている。丘はかつて水のない孤島で、蛇が冬を越すには好都合な地形であった。近くの湖はズメイノエ(蛇の湖)と呼ばれていた。
ソ連解体後、タタールスタン共和国と首都カザンは民族意識の高まりのなかでユランを前面に押し出し、市章に戻した。竜退治の聖ゲオルギオスを紋章とするモスクワと向かい合う図柄であるため、征服の記憶を呼ぶという反発もあった。それでもユランはカザンの守り手として受け入れられており、この点はウェールズの赤い竜と同じ働き方をしている。現在では地下鉄の天井にまで描かれ、モスクワ州カシーラ市もジラントを紋章に用いる。日本語では、ロシア語形のジラントで紹介されることも多い。