昊天上帝
上帝 · 天帝 · 皇天上帝
中国の国家祭祀における至高神。天そのものを神格化した存在で、殷代には「帝」と呼ばれた。姿も物語も持たず、皇帝ただ一人が冬至に祀ることを許された神である。
解説
概要
昊天上帝(こうてんじょうてい、Hàotiān Shàngdì)は、中国の国家祭祀における至高神である。単に上帝、あるいは天とも呼ばれ、天そのものを神格化した天空の神として、殷代から清末まで三千年余にわたり祀られた。中国神話の神々のうち最も古い層に属しながら、誕生も闘争も恋愛も語られない。物語を持たないこと、そして皇帝(天子)ただ一人が祀る資格を持つ神であったことが、この神格の際立った特徴である。
神話・物語
最古の姿は殷代の甲骨文に見える。卜辞の「帝」は雨を降らせ、風を起こし、収穫の豊凶と戦の勝敗、都邑の禍福を左右する存在として現れる。ただし帝そのものへの祭祀はほとんど記録されない。帝は遠すぎるとされ、王は自らの祖先の霊を介して伺いを立てた。その帝が何者かについては、殷の始祖である帝嚳と同一とみる郭沫若らの説、天の北極そのものとみるデイヴィッド・パンケニアの説などがあり、定説を見ていない。
周が殷を滅ぼすと、周人は自らの「天」をこの帝に重ね、天命の思想を立てた。天は血統ではなく徳によって支配権を託し、徳を失えば取り上げる。『詩経』大雅・文王が天命は一定しないと歌うこの論理は、王朝交替を正当化すると同時に、皇帝を天の審判のもとに置いた。裁く天という性格はここに生じている。
漢代には天と上帝の関係そのものが学問の争点となった。董仲舒は『春秋繁露』で天を百神の大君、万物の祖と呼び、万物を生む根源として位置づけた。鄭玄は上帝を天の別名としつつ、昊天上帝と五方上帝からなる六天の体系を立てたが、王粛はこれを退け、天と呼びうるのは昊天上帝のみだとした。祭天の制度は、この解釈の対立を軸に王朝ごとに書き換えられていく。
概念としての天
上帝は祀られる神格であると同時に、「天」という語のかたちで中国思想の鍵概念でもあり続けた。この二面をどう捉えるかが、学派ごとの分かれ目となる。
『論語』の孔子は天を多くは語らないが、天を怨まず人を咎めず、自分を知る者は天だと述べ、人格をそなえた天への信を手放していない。墨子はこれを一歩進め、天は明確な意志(天志)をもち、兼愛を好み、賞罰を下すと説いた。逆の方向へ振れたのが荀子である。『天論』は、天の運行には常があり、堯のために存するのでも桀のために亡びるのでもないとして、天を自然の秩序とみなし、人事と切り離す「天人の分」を立てた。漢の董仲舒が天人相関の説によって天と人の応答を復活させ、宋学に至ると程頤・朱熹が天を理と等置して、人に内在する道徳原理と自然の法則を同じ「天理」の名で呼ぶようになる。意志をもつ主宰者から、非人格的な理法まで、天の幅はきわめて広い。
字形の解釈も定まらない。楷書の「天」は「大」の上に「一」を置いた指事字と説かれるが、甲骨文・金文の字形は人の頭部を大きく強調した形をとり、原義が頭頂なのか神なのかは決着していない。
なお「天」の語は、後に伝わった外来の観念を訳すためにも用いられた。仏教では梵語スヴァルガ(神々の世界)や六道の天道が「天」と訳され、梵天・帝釈天のように尊格の名にも入る。キリスト教では神のいる世界を天、神そのものを天主と訳した。日本近世では、朱子学が天を理と等置したのに対し、徂徠学は人格的な信仰の対象としての天を説き、本居宣長は『古事記伝』で天命思想そのものを退けている。これらはいずれも中国の上帝祭祀とは系統を異にする用法であり、同じ「天」の字を負っていることに引きずられないよう注意がいる。
図像と象徴
昊天上帝には像がない。姿なき神を祀るために据えられたのは、称号を記した木の神位である。明の嘉靖帝は嘉靖十七年(1538年)に称号を「皇天上帝」に改め、以後、北京の天壇にはこの四文字を金字で記した神版が置かれた。
祭器と色は天の観念をそのまま形にしている。『周礼』春官・大宗伯は、蒼璧すなわち青い円形の玉で天を、黄琮すなわち黄色い方形の玉で地を祀ると定める。天は円く青く、地は方形で黄色いという天円地方の宇宙観が、器物の形と色に置き換えられている。清代の祭天用の磁器が藍釉で焼かれ、祈年殿の屋根瓦が青一色であるのも同じ理屈による。
儀礼の中心は燔燎、すなわち犠牲と玉帛を薪の上で焼き、その煙を天へ立ちのぼらせる所作である。姿なき神に対しては、供物を差し出すのではなく、燃やして届けるほかない。祭壇である圜丘は三層の円壇で、石畳は陽の極数である九の倍数で敷き詰められる。
「帝」の字形の解釈も割れている。花の萼を象ったものとみるのは呉大澂・王国維・郭沫若の説で、実を結ぶ萼に万物を生む根源を見る。徐中舒はこれを「禘」の初文とみて、天を祀るために組み上げた薪の架を象ったものと解した。
系譜と関係
昊天上帝には親も配偶者も子もいない。盤古の天地開闢や女媧の造人のような創世譚を負う神々とは、成り立ちが異なる。親子の関係は擬制的なものだけがあり、地上の統治者を「天子」と呼ぶ言い方がそれにあたる。
道教が興ると、天上の主宰者という位置に、人格と宮廷を備えた玉皇大帝が現れる。唐代の道教経典は玉皇に「昊天金闕至尊玉皇上帝」の号を与えて両者を近づけ、宋の徽宗は政和六年(1116年)、玉皇の尊号に「昊天」の二字を加えて一体化した。しかしこの習合は国家祭祀の側には定着せず、徽宗以後ふたたび分離する。明清の祭天が祀るのは昊天上帝、民間が拝むのは玉皇大帝という棲み分けが、以後長く続いた。
文化的足跡
郊祀の舞台として明の永楽十八年(1420年)に築かれた北京の天壇は、嘉靖九年(1530年)の天地分祀を経て祭天専用の祭壇となり、現在は世界遺産に登録されている。国家祭祀としての祭天は清朝の滅亡で途絶えたが、1914年の冬至、袁世凱が大総統として圜丘で一度だけこれを行った。中国史上最後の祭天である。
天を至高とする観念は、天子・天下・天罰・老天爺といった語となって日常に残った。また十六世紀末以降、キリスト教の宣教師のあいだで神をどう漢訳するかが論じられ、「上帝」の語を採る系統は今日の中国語訳聖書に受け継がれている。現代の創作で天界の主として登場するのはもっぱら玉皇大帝であり、昊天上帝の名が用いられることは多くない。