河童
カッパ · 川童 · 河太郎
日本各地の水辺に伝わる妖怪。頭の皿に水を湛え、相撲と胡瓜を好み、人や馬を水へ引き込むと語られる。水神が零落した姿とする見方が広く支持される。
解説
概要
河童(かっぱ)は、日本各地の川・沼・池に棲むと伝えられる妖怪である。名は「かわ(川)」に童(わらは)の変化形「わっぱ」が付いた「かわわっぱ」の転とされる。頭頂に水を湛えた皿、嘴のようにすぼまった口、背の甲羅、水掻きのある手足——これが今日の定型だが、この姿に落ち着くまでには長い変転があった。地方名は八十を超え、南九州のガラッパ・ヒョウスベ、東北北部のメドチ、中国・四国のエンコウなど、呼称も形態も一様ではない。柳田國男以来、河童を水神が零落した姿とみる説が広く支持されている。
登場する物語
河童の説話は、驚くほど型が定まっている。もっとも広く分布するのが、水辺で馬や牛を水中へ引き込もうとして失敗し、逆に引き上げられて捕らえられるという「牛馬引き」の型である。捕らえられた河童は命乞いをし、詫び状を差し出す、傷薬の製法を教える、以後この地で溺死者を出さないと誓う、といった形で人に報いる。播磨の『西播怪談実記』(宝暦四年/一七五四)に載る、腕を斬られた河虎が骨接ぎの妙薬を伝えて腕を返してもらう話は、その古い例である。詫び状や斬られた腕と称する遺物は、いまも各地の旧家・寺社に伝わる。
もう一つの顔は水難である。江戸期には、泳ぐ者を水中へ引き込んで溺れさせる存在として恐れられた。尻子玉を抜くという発想もこの系列に属する。
相撲を好むことは貝原益軒の『大和本草』(一七〇九年)に既に見え、『和漢三才図会』(一七一二年)は端的に相撲好きと記す。相撲がもともと水神への奉納神事であったことと結びつけて説明されることが多い。頭の皿は力の源であり、乾いても割れても力を失うとされたため、河童に礼をして頭を下げさせ、皿の水をこぼさせるという対処法が語られた。皿の水を翻す戦術は『老媼茶話』(寛保二年/一七四二)に既に見える。
胡瓜を好むという伝えも古い。『和漢三才図会』は川太郎が瓜や茄を盗むと記す。初物の胡瓜を水神に供えるまでは人が口にしないという習俗が各地に残り、胡瓜を川へ流して水難を避ける呪いも行われた。弱点としては鉄、鹿の角、麻幹(おがら)、ササゲ豆が挙げられ、猿を宿敵とする観念も広い。
九州では九千坊と呼ばれる河童の頭領の伝説が語られ、球磨川・筑後川を本拠に西海道一円の河童を束ねたという。加藤清正が猿を集めて討伐したとも伝わる。秋から冬にかけて山に入り、春に川へ下るという伝承も九州・近畿を中心に多く、山に入った河童は山童(やまわろ)・セコなどと名を変える。
図像と象徴
河童の姿は、江戸期を通じて大きく変わった。十八世紀以前の本草・博物の書における河童は、まず猿型である。『下学集』(文安元年/一四四四序)は「獺(かわうそ)老いて河童に成る」と記し、『日葡辞書』(一六〇三年)は川に棲む猿に似た獣と釈義する。『和漢三才図会』の挿絵も全身を毛に覆われた猿型で、頭の窪みが描かれる。
十八世紀半ば、山も猿も身近でない江戸の人々のあいだで、カエル・スッポン型の図像が形をなす。後藤梨春『随観写真』や平賀源内の戯作『根南志具佐』(宝暦十三年/一七六三)の河童図がその早い例である。鳥山石燕の『画図百鬼夜行』の河童は、鱗のような肌に模様をもつ姿で描かれた。本草学者・栗本丹洲の『千蟲譜』(文化八年/一八一一序)の図はスッポンを写生の下敷きにしたと考えられ、口をすぼめた造形を定着させた。
この過渡期を一冊のなかに封じ込めているのが水虎考略(文政三年/一八二〇)である。収める十二図のうち半分は頭に皿とザンバラ髪をもつ猿人型、残り半分はスッポン型で、統一像がまだ成立していないことがそのまま見て取れる。本項に掲げるのは、その天保七年(一八三六)写本の一図で、享和元年(一八〇一)に水戸領の浜で網にかかったという個体を、身長・体重まで添えて記録している。妖怪が博物学の記載対象として扱われている点が興味深い。
十九世紀中葉になると甲羅が消え、カエルの要素が強く出る。歌川国芳の毛谷村六助図がその例である。明治の月岡芳年に至って河童は滑稽で愛嬌のある存在となり、日本画家の小川芋銭(一八六八—一九三八)は『河童百図』(一九三八年)で生き生きとした河童像を築いた。今日の緑色で愛らしい河童像は、この近代の系譜の延長にある。江戸以前の記録が伝える猿型の河童とは、隔たりが大きい。
関わる伝承と信仰
河童を水神の零落した姿とみる説は、『妖怪談義』に代表される柳田國男の妖怪論の枠組みに沿うものである。胡瓜を初物として供える習俗、相撲との結びつき、水難除けの祈願先としての性格は、いずれも水の神への信仰の名残として説明されてきた。福岡・久留米の水天宮では、かつて河童そのものを水天宮と呼んだが、やがて水天宮を上位の水神とし、河童をその眷属と位置づけるようになったと伝えられる。
ミズチ(蛟)系統の名を残す東北のメドチ、南九州のヒョウスベなど、地方名の分布は、河童が一つの妖怪の全国伝播ではなく、各地の水の怪異が「河童」の名のもとに束ねられた結果であることを示唆する。単一の起源を求めるより、複数の系統の集合として捉えるほうが実態に近い。遠野物語が伝える遠野の河童が顔を赤いとする点も、全国的な緑色の像が近代の産物であることを示している。
文化的足跡
河童は日本の妖怪のなかでも際立って親しまれた存在で、芥川龍之介の小説『河童』(一九二七年)をはじめ、近代以降の創作に繰り返し取り上げられた。清水崑の漫画によって、可愛らしく滑稽な河童像は大衆に浸透する。地名・駅名・郷土玩具にもその名は多い。現代の小説・アニメ・ゲームにも定番の題材として登場するが、造形の多くは近代に整えられた愛嬌ある河童像を受け継いだものである。