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飯縄権現
PLATE — 飯縄権現
YAMATO · 日本神話
飯縄権現

飯縄権現

いづなごんげん · いいづなごんげん · 飯綱権現

土佐秀信『増補諸宗仏像図彙』(1783年)飯縄権現図 PUBLIC DOMAIN

信濃の飯縄山への信仰から生まれた習合の神。剣と索を持つ烏天狗が白狐に乗る姿で表され、戦勝の神として中世の武将に篤く信仰された。

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解説

概要

飯縄権現(いづなごんげん)は、信濃の飯縄山(飯綱山)への山岳信仰を発祥とする習合の神。飯綱権現、飯縄明神ともいう。剣と索を持つ烏天狗が白狐に乗る姿で表され、戦勝の神として中世の武将たちに篤く信仰された。同時に、この神が授ける「飯縄法」は狐や天狗を使役する外法とされ、畏怖と警戒の対象でもあった。神でありながら妖怪じみた天狗の姿をとり、正統の信仰と邪法のあいだに立つ、両義的な神格である。

由来と物語

飯縄山での修験は、隣接する戸隠山の戸隠修験の傘下にあった。ただし発端は飯縄山にあったとみられ、飯綱信仰は戸隠信仰より古いとも言われる。室町期の『戸隠山顕光寺流記并序』は、天福元年(1233年)に飯縄大明神が戸隠の住職のもとに現れ、「日本第三の天狗なり」と名乗ったと記す。天狗としての性格が、早くからこの神に備わっていたことがわかる。

近世の『飯縄山略縁起』は、嘉祥元年(848年)に学問行者が飯縄山で飯縄明神を拝したとし、天福元年に荻野城主・伊藤忠縄が神託を得て山頂に祀り、五穀を断つ千日行を経て神通力を得て「千日太夫」の祖となったと伝える。以後、飯縄修験を代々率いたのは千日太夫と呼ばれる行者であった。武田勝頼が千日太夫の養子に仁科の名を与えて以来、その子孫が代々これを名乗ったという。

飯縄権現への信仰は、中世の武将のあいだで際立って盛んだった。細川政元、九条稙通、上杉謙信、武田信玄らがこれを奉じ、とりわけ上杉謙信の兜の前立が飯縄権現像であることはよく知られる。戦勝を約す神として、また農耕神・火伏せの神として仰がれた。

図像と象徴

飯縄権現の姿は独特である。剣と索(縄)を手にした烏天狗が、白狐の背に乗って立つ。五体には蛇が巻きつくこともある。烏天狗・狐・蛇という、いずれも神使とも妖異ともなりうる存在を一身に集めた造形で、本項に掲げる土佐秀信『増補諸宗仏像図彙』(1783年)の図もこの姿を示す。本地仏は不動明王や荼枳尼天とされることが多く、信州飯縄山では地蔵菩薩とされた。高尾山薬王院では、不動明王・歓喜天・迦楼羅天・荼枳尼天・宇賀神の五相が合体した姿と説かれる。

象徴の核にあるのは、烏天狗と白狐の組み合わせである。天狗は山の霊威を、白狐は荼枳尼天につらなる現世利益をそれぞれ体現する。この二つを乗り合わせた姿が、飯縄権現を戦勝と蓄財の神たらしめ、同時に、その力を狐を使って引き出す「飯縄法」を外法と呼ばせる根拠ともなった。神の像がそのまま、邪法の本尊でもあるという二重性が、この造形には畳み込まれている。

系譜と関係

神仏習合の神であるため、記紀の系譜には位置を持たない。天狗としては「日本第三の天狗」を称し、愛宕山の太郎坊、比良山の次郎坊に次ぐとする序列に連なる。真言「オン チラチラヤ ソワカ」の「チラチラヤ」は、『今昔物語集』に現れる天狗智羅永寿の名に由来すると考えられている。

狐を眷属とする点で稲荷神と習合し、その狐が荼枳尼天を介して現世利益の信仰に結びつく。使役される狐は、憑き物としての飯綱と地続きであり、飯縄権現の信仰は、天狗信仰・稲荷信仰・憑き物信仰が交差する結節点をなしている。

文化的足跡

飯縄権現は今日も各地で信仰されている。信州の飯縄神社のほか、東京の高尾山薬王院、千葉の鹿野山神野寺や飯縄寺、日光山輪王寺など、関東以北に篤い信仰が残る。高尾山薬王院は戦国期に後北条氏の、江戸期に徳川家の庇護を受けて栄えた。

一方、飯縄権現の名は、忍術や妖術のイメージとも結びついてきた。「飯縄の術」は人の目をくらます幻術として語られ、現代の忍者もの作品では、高所から相手を叩きつける「飯綱落とし」の名にその記憶がとどめられている。神・天狗・妖術という複数の顔をあわせ持つがゆえに、この神は今なお多様な想像力の源泉であり続けている。

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領分・別名

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資料

Wikidata
Q11666654 — 骨格データの出典
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Izuna Gongen — 図像カテゴリ