イナラ
イナラシュ · Inaras · イナル
ヒッタイトの神話で荒野の野獣を司る女神。嵐の神テシュブの娘とされ、宴の策で大蛇イルルヤンカシュを罠にかける。
解説
概要
イナラ(イナルとも)は、ヒッタイトの神話で荒野の野獣を司る女神である。嵐の神テシュブ(ヒッタイト側ではタルフンナ)の娘とされる。獣の群れを従える女神という性格から、ギリシアの「獣の女主人」ポトニア・テローン、すなわちアルテミスに対応する像として引き合いに出されることが多い。
当サイトにはアナトリアの神話体系に対応する区分がないため、本項目は暫定的にメソポタミア神話のもとに置いている。彼女はハッティに起源をもつ神格で、ヒッタイトの宗教に受け継がれた。
神話・物語
彼女が主役を務めるのは、大蛇イルルヤンカシュをめぐる物語の第一の版である。嵐の神が蛇に敗れたのち、彼女は宴を催すよう求められる。おそらくプルリ祭にあたる祭である。彼女は宴を罠として用いることに決め、ジガラッタの人間フパシヤシュに助力を請うた。条件は彼の恋人となることであった。蛇とその一族は供された酒食をむさぼって泥酔し、そのあいだにフパシヤシュが縄をかける。動けなくなった蛇を父が討ち、世界の秩序は保たれた。
物語には後日談がある。イナラは崖の上に家を建ててフパシヤシュに与え、留守のあいだ窓から外を見てはならないと命じた。理由は、家族の姿を目にすれば里心がつくからだという。彼は禁を破って故郷を見下ろし、帰りたいと願い出る。その先の記述は失われており、彼女が彼を殺したとする読み、あるいは思い上がりを罰したとする読み、帰郷を許されたとする読みが並び立つ。日本語で流布する紹介の多くは彼女が殺したとするが、原典が明示しているわけではない。
もう一つの伝えでは、母なる女神ハンナハンナが彼女に土地と男を与えると約束する。その直後にイナラは姿を消し、父が捜索に出て、蜂を伴ったハンナハンナが加わる。娘の失踪と母の捜索という筋立ては、デーメーテールとペルセポネーの物語との類似がしばしば指摘される。
図像と象徴
イナラを描いたと確実に同定できる図像は知られていない。ヒッタイト美術では女神の像は多く残るが、銘文を伴わない限り個体の特定は困難であり、彼女に帰しうる作例は確認されていない。当サイトが本項目に主画像を置かないのはこのためである。荒野の獣を司るという性格から、鹿や牡牛を伴う神像との関係が推測されることはあるが、根拠を欠く。
系譜と関係
父は嵐の神テシュブ/タルフンナ。母なる女神ハンナハンナと関わる伝承がある。人間フパシヤシュとの関係は、神と人が交わる数少ない例として注目されてきた。物語のなかで彼女は、父の力ではなく計略によって敵を倒す役を担っており、力の神と知恵の神が対をなす構図がここにも現れている。
文化的足跡
彼女の名は、ヒッタイトの都ハットゥシャの守護女神とも結びつけられる。物語がボアズキョイ文書の祭儀文書として残されたことは、この女神が文学の登場人物である以前に、祭のなかで名を呼ばれる存在であったことを示している。