ヒュギエイア
ヒュゲイア · ヒギエア · ヒュギエア
健康・清潔・衛生を司るギリシアの女神。アスクレーピオスの娘で、病を癒す父に対して病を防ぐ側を担う。蛇と杯の図像は今日も薬学の象徴である。
解説
概要
ヒュギエイア(Ὑγιεία / Ὑγεία)は、ギリシア神話の健康・清潔・衛生の女神である。名はそのまま「健康」を意味する普通名詞であり、英語の hygiene(衛生)の語源にあたる。
医神アスクレーピオスとエピオネーの娘とされ、四人の姉妹とともに父の技のそれぞれ一面を担った。ヒュギエイアが健康と清潔、パナケイアが万能の薬、イアソーが病からの回復、アケソーが治癒の過程、アイグレーが輝くような健やかさである。
もともとは軽い擬人化にすぎなかったものが、アスクレーピオス信仰のなかで一柱の女神へと育っていった。
神話・物語
固有の物語はほとんどない。この女神は神話ではなく、祭祀と医療の現場に生きていた。
父と娘は、神殿を訪れた病者の夢に現れる。参籠して眠り、夢のなかで神の指示を受ける「神殿睡眠」(インクバティオ)が、アスクレーピオス信仰の治療儀礼であった。父がすでに病んだ者を癒す神であるのに対し、この女神が担うのは病を防ぐこと、そして健康を保つことである。治療と予防が二柱に分けられている。
「ヒッポクラテスの誓い」の冒頭が、その位置をよく示す——医神アポローンに、アスクレーピオスに、ヒュギエイアに、パナケイアに、そしてすべての男神女神にかけて、これらを証人として誓う。医師が名を挙げて誓う相手のうちに、この女神が入っている。
2世紀の旅行家パウサニアースは『ギリシア案内記』で、テゲアーでアスクレーピオスとヒュギエイアの像を見たと記す。同じ時期のギリシア・ローマの貨幣にも、両者を並べた図像が繰り返し刻まれた。
図像と象徴
本サイトが掲げるのは、後1〜2世紀のローマ期の大理石像である(メトロポリタン美術館蔵)。
図像の定型は、蛇と杯である。若い女性が一匹の蛇を従え、薬あるいは水を入れたと思われる杯を携える。蛇が杯に頭を差し入れて中身を飲む形が最も知られており、この「ヒュギエイアの杯」は今日でも薬学の象徴として広く用いられている。日本の薬局の看板にも、この図案は登場する。
蛇はアスクレーピオス信仰そのものの徴である。父の持物である蛇の巻きついた杖と、娘の持物である蛇と杯——同じ動物が、治療と健康維持の双方を表している。
祭祀の中心はエピダウロス、コリントス、コース島、ペルガモンであった。シキュオンのティタネにあるアスクレピエイオンでは、この女神の像が女たちの髪の毛とバビロニア風の布切れで覆われていたとパウサニアースは記す。パロス島にも同様の奉献があったことが碑文から分かる。髪を切って捧げるという所作が、この女神への祈りの形だったことになる。
アテーナイではアテーナーと結びついた。アクロポリスの入口近くにヒュギエイアの像と「アテーナー・ヒュギエイア」の像が並んで立っていたという。プルタルコスによれば、パルテノン建造中に高所から落ちて瀕死になった職人を、ペリクレスの夢に現れた女神の指示によって癒した出来事から、青銅の像が奉献された。ペイディアスが黄金でこの女神の像を作り、台座に自らの名を刻んだとも伝えられる。
系譜と関係
父はアスクレーピオス、母はエピオネー。姉妹にパナケイア、イアソー、アケソー、アイグレー。弟にテレスポロス、兄にマカーオーンとポダレイリオスがいる。
ローマではサルースと同一視された。ただし両者の職掌は重ならない。サルースは個人の健康だけでなく国家の安寧をも司る古い女神であり、ギリシアの女神が持ち込まれる以前からローマにあった。同一視は名の翻訳であって、内容の一致ではない。
文化的足跡
この女神の名は、そのまま近代語に残った。英語の hygiene、フランス語の hygiène、日本語の「衛生」に対応する概念——いずれもこの語に発する。
小惑星帯の第10番小惑星ヒギエア(10 Hygiea)も、この名を採ったものである。1849年の発見で、小惑星帯で四番目に大きな天体にあたる。
ギリシアの神々のうち、名が普通名詞として現代の日常語に定着した例は多くない。予防と清潔という観念に女神の名が与えられ、その名が二千年後の公衆衛生の語彙になっている。
領分・別名
親・配偶者・子までを表示(全体はフル系図ページへ)。実線=主要伝承/点線=異伝・別系統。