ネッソス
ネッスス · ネソス
ヘーラクレースの妻デーイアネイラを襲おうとして毒矢に射られたケンタウロス。死に際の偽りによって、のちに英雄そのものを死に至らしめた。
解説
概要
ネッソス(Νέσσος / Nessos)は、エウエーノス川の渡し守を務めたケンタウロスである。ヘーラクレースの妻デーイアネイラを背に乗せて川を渡すあいだに乱暴を働こうとし、毒矢に射抜かれて死んだ。
彼が重要なのは、死に際の一言による。自分の血には愛を取り戻す力があると偽ってデーイアネイラに渡させたその血が、years ののちにヘーラクレースを殺す。ギリシア最大の英雄を倒したのは、怪物でも神でもなく、すでに死んでいた者の企みであった。
登場する物語
ヘーラクレースは妻を連れてエウエーノス川に至る。渡し守を名乗るネッソスは、女を背に乗せて先に渡ると申し出た。川の中ほどで彼女に手を出そうとしたところ、対岸からヒュドラーの毒を塗った矢が飛んで胸を貫く。
倒れながら、ネッソスはデーイアネイラを呼び寄せた。自分の血を取っておけ、夫の心が離れたときにこれを使えば愛は戻る、と。彼女はその言葉を信じ、血を密かに蓄える。矢に塗られていたヒュドラーの毒がその血に混じっていることを、ネッソスは知っていた。
歳月ののち、ヘーラクレースはオイカリアを攻めて王女イオレーを連れ帰る。夫を奪われることを恐れたデーイアネイラは、蓄えた血を衣に塗って送った。衣は着た者の肉を焼き、剥がすこともできない。苦しみのなかでヘーラクレースはオイテー山に薪を積ませ、自ら横たわって火をつけるよう命じた。誰もためらって手を出さないなか、ポイアースが進み出て火を放つ。英雄は礼として弓を与え、この弓は子ピロクテーテースがトロイア戦争へ持参することになる。
デーイアネイラは自らの手で命を絶った。ソポクレース『トラーキースの女たち』は、この一連を悲劇として構成している。ネッソスはラピテース族との戦い、いわゆるケンタウロマキアにも加わったと伝えられる。
図像と象徴
現存する最古級の作例が、そのまま最も名高い作例でもある。アテナイのピレエウス街道の墓から出た黒絵ネックアンフォラ(前620〜610年頃、アテネ国立考古学博物館 1002)は、頸部にヘーラクレースがネッソスを組み伏せて剣を振り下ろす場面を描き、両者の名を ΗΕΡΑΚΛΕΣ、ΝΕΤΟΣ と書き添えている。この壺によって、無名の絵付師は「ネッソスの画家」と呼ばれるようになった。初期アッティカ黒絵を代表する一点である。
ここでは弓ではなく剣が用いられている。矢で射たとするアポロドーロス以下の記述と、古い図像は一致しない。ヒュドラーの毒という要素が物語に組み込まれるより前の段階を伝えている可能性がある。
前5世紀以降、構図は「攫って走る」型へ移る。デーイアネイラを背や腕に抱えて駆けるネッソスと、追うヘーラクレースという三者の配置が定型化し、ローマ期の壁画に受け継がれた。ルネサンス以降の美術がこの型を引き継ぎ、ジャンボローニャの群像彫刻やルーベンス、グイド・レーニの絵画が繰り返し取り上げている。剣で討たれる怪物から、女を奪って走る怪物へ——主題の重心が移動している。
関わる伝承
父はケンタウロスたちの祖ケンタウロスとされる。同族のケイローンが知と医術を体現するのに対し、ネッソスは欲と欺きの側に置かれる。ケンタウロス族が理性と獣性の境目に配された存在であることを、この二者の対比が端的に示している。
物語の構造も注目に値する。ヒュドラーの毒はレルネーの功業で得られ、ネッソスの体を通り、衣に移って持ち主のもとへ帰る。ヘーラクレースは自らの功業の産物によって滅びた。怪物退治の連続として語られてきた生涯が、最後に自分自身へ折り返す。
文化的足跡
「ネッソスの衣」は、逃れられない災いや身を滅ぼす贈り物を指す成句として、西洋の言語に定着した。日本語でもこの訳語で用いられる。
ダンテ『神曲』地獄篇第12歌では、暴力の圏を流れる血の川ブレゲトンの岸をケンタウロスたちが巡回し、そのなかのネッソスがケイローンの指示でダンテとウェルギリウスの案内役を務める。T・S・エリオット『四つの四重奏』の一節も、焼く衣の主題を踏まえている。天文学では、ケンタウロス族と呼ばれる小天体の一つ (7066) ネッススがこの名を負う。
領分・別名
親・配偶者・子までを表示(全体はフル系図ページへ)。実線=主要伝承/点線=異伝・別系統。