モルモー
モルモ · モルモリュケー · モルモーン
子供を脅すために名を呼ばれたギリシアの女の妖怪。冥界に属し、ラミアーやゲローと同類とされた。
解説
概要
モルモー(Μορμώ / Mormo)は、ギリシアの民間伝承に現れる女の妖怪である。モルモリュケー(Μορμολύκη、「恐ろしい狼」)、モルモーンとも呼ばれる。母や乳母が、子供を大人しくさせるためにその名を口にした。
神話の物語のなかで働く怪物ではない。この存在が伝わるのは、詩人の回想、喜劇の台詞、そして辞書の項目である。ギリシア人が実際に子供に語って聞かせた「お化け」の一つであり、ラミアー、ゲローと同じ列に置かれる。
登場する物語
名の意味からして「恐ろしいもの」である。モルモーの複数形モルモネスは「恐ろしい者たち」「醜い者たち」を意味し、恐怖を表す一群の語と関わる。変形のモルモリュケーは、語幹リュケイオス(狼の)を含んで「恐ろしい狼」と解される。
出自を語る資料は乏しい。ただ一つの資料が、もとはコリントスの女で、自らの子を食ったのち飛び去ったと伝える。己の子を失った悲しみから他人の子を殺そうとするという筋は、ラミアーやゲローと共有される型である。ラミアーの別名としてモルモーとゲローを挙げる古註もあり、三者の境界は古代においても曖昧であった。同じ古註は、彼女を人食い巨人ライストリューゴーン族の女王だったとも記す。
前5世紀の喜劇作家ソープローンは、ドーリス方言形モルモリュカーの名で、冥界の河アケローンの乳母(ティテーネー)としている。冥界に属する存在という理解は、ヘカテーに捧げられた祈祷文にゴルゴーと並んでその名が挙がることとも符合する。近代の解説はしばしば、この妖怪をエンプーサ——ヘカテーが遣わす幻——と結びつけて説明する。
しかし、この存在の本領は冥界にはない。子供を脅す言葉としての用法である。アリストパネスの喜劇に用例があり、ビザンツ期の『スーダ』はモルモーを「ポベートロン」(脅し)と説明する。前4世紀の女性詩人エリンナは『糸巻き棹』のなかで、幼いころ友人バウキスとともにモルモーを恐れたことを回想している。実際に子供だった者が、自分がそれを怖がったと書き残している数少ない例であり、この妖怪が文学の意匠ではなく生活のなかにあったことを示す。
驚くべきことに、この名は千数百年後まで生きていた。第一回十字軍のころにビザンツの皇女アンナ・コムネーナが著した『アレクシアス』にも、幼児を怖がらせるものとしてモルモーの名が記されている。
図像と象徴
古代の作例は知られていない。子供を脅すために名を呼ばれるだけの存在に、決まった姿はなかったのだろう。本項では主画像を置いていない。
そのかわり、面としては存在した。イソップ寓話に『狐とモルモーの面』がある。狐が劇場の小道具部屋で立派な面を見つけ、手に取って「なんと美しい頭だ、しかし脳がない」と言う——見かけばかりで中身のない者を風刺する話である。モルモーの面が舞台の小道具として実在したことがここから分かる。姿を持たない妖怪が、演劇の場では顔を与えられていたことになる。
ピロストラトス『テュアナのアポローニオス伝』では、若者に取り憑いた女の幻(パスマ)を指す名の一つとしてモルモリュケーが用いられる。姿の定まらぬ恐怖一般を指す語として働いていたことがうかがえる。
関係する神格・退治した英雄
退治される怪物ではなく、系譜も持たない。ヘカテーに仕えるとされ、エンプーサと並べられる。ラミアー、ゲローとはしばしば同一視され、区別しがたい。いずれも子を失った女が他人の子を襲うという型に属し、産育の不安が形をとったものと理解されている。
文化的足跡
近代のオカルト文献は、この名をしばしば「吸血鬼の女王」などと紹介するが、古代の資料にそうした位置づけはない。19世紀以降の幻獣事典が、断片的な記述を組み合わせて作り上げた像である。日本語の資料に見える「吸血鬼の一種」という説明も、この系統に由来する。
蛾の一属 Mormo にその名が与えられている。また、モルモリュケイオンの語は現代ギリシア語にも「お化け」の意で残った。子を叱る言葉として二千数百年使われ続けた名である。