エンプーサ
エンプサ · エンプーサイ · エンプーシア
古代ギリシアの伝承に現れる姿を変える女の妖鬼。片脚が青銅とされ、ヘカテーに遣わされる。後代には若者を誘惑して喰らう妖の総称となった。
解説
概要
エンプーサ(Ἔμπουσα / Empousa、複数形エンプーサイ)は、古代ギリシアの伝承に現れる姿を変える女の妖鬼である。片脚が青銅であるとされ、ヘカテーに遣わされる。その正体がそもそも何であったのかは判然としない。
10世紀の百科事典『スーダ』とマロスのクラテースは、これを変身の能力をもつ「鬼神の幻影」と定義した。片脚が青銅、あるいは驢馬の脚であることから、オノコーレ、オノスケリス(いずれも「驢馬の脚をもつ女」)という添え名で呼ばれる。名を「一本足の者」(en-「一つ」+ pous「足」)と解する民間語源も行われた。
古代末期になると、これは個体の名ではなく一群の存在を指す語となる。若い男を誘惑して喰らう幻影の類とされ、ラミアイやモルモリュケイアと互いに置き換えられるようになった。
登場する物語
古代における主要な典拠は二つしかない。アリストパネスの喜劇と、フィロストラトスの『テュアナのアポローニオス伝』である。
喜劇『蛙』では、冥界へ向かうディオニューソスと従者クサンティアースの前にエンプーサが現れる。クサンティアースは、それが牡牛に、騾馬に、美しい女に、犬に姿を変えるさまを次々に報告し、片脚は確かに青銅で、もう一方は牛糞でできていると請け合う。
ただし、この場面は従者が主人を怖がらせるための悪ふざけとも読める。舞台上でディオニューソス自身がそれを見た保証はない。この存在の現存最古の記述が、すでに冗談として提示されているという事情は、輪郭の定まらなさの一因でもある。
遣わす者についても資料が割れる。ある古註はヘカテーが遣わすものとするが、失われた喜劇『鍋の男たち』の断片——ヴェネツィア写本に引かれる——は、エンプーサをヘカテー自身とする。従者なのか、女神の一つの相なのか、決められない。
紀元1世紀の『テュアナのアポローニオス伝』では、性格が明確になる。コリントスで、若い哲学の徒メニッポスの花嫁の正体を哲人アポローニオスが暴く。豪奢な館も器も幻と消え、女は自分がエンプーサであること、この若者を肥え太らせてよりよく喰らうつもりであったこと、そして若い男の血の新鮮さと清らかさをこそ求めていたことを認める。19世紀のスミス『ギリシア・ローマ人名神話事典』(1849年)が、この一節から彼女を吸血鬼と解したのは、こうした記述による。
同じ書の別の箇所では、アポローニオスがペルシアからインドへ向かう途上でエンプーサに出会う。彼はそれに罵声を浴びせ、同行者にも加勢を促した。妖鬼は甲高い叫び声をあげて逃げ隠れたという。剣ではなく悪口によって退けられるという退治法は、この存在の性格をよく示している。
図像と象徴
古代の美術に、銘によってエンプーサと同定できる作例は知られていない。ラミアーと同じく、文字のなかにだけ存在した怪である。本サイトも主画像を掲げない。
標識となるのは、揃わない脚である。片方が青銅、もう片方が驢馬あるいは牛糞。左右が対称でないという一点だけが、姿を自在に変えるこの存在の唯一の定数となっている。どんな姿をとっても脚だけは隠せない、という発想は、フルドラの尾や、異界の存在を見分ける徴の話型に通じる。
青銅という素材にも意味がある。ギリシアの伝承において青銅は、鬼神を退ける金属であると同時に、人ならぬものの身体を作る素材でもある。魔を祓う金属が魔の身体になっているという反転が、ここにはある。
関わる伝承
ヘカテーの従者、あるいはヘカテー自身。ラミアー、モルモー、モルモリュケーとは互いに名を置き換えて用いられた。『アポローニオス伝』のコリントスの挿話では、エンプーサが正式な呼称、ラミアーが世間の通称であると説明される。子を脅す名として用いられた点も、これらの存在に共通する。
近代ギリシアの民俗にも、これに合致する存在の記録がある。ベルンハルト・シュミットが1871年に公刊したアラホヴァ(パルナッソス)の例では、きわめて痩せた女で、脚が何本もあり、「一つは青銅、一つは驢馬の脚、一つは牛、一つは山羊、一つは人間」と語られる。ただし呼び名はエンプーサではなく、ラミアーのような身体と歩き方をした女、というものだった。シュミット自身、エンプーサの口承がどこかに残っているのではないかと推測したにとどまる。
チャールズ・スチュワートによる1985年の現地調査は、より慎重な像を示す。エンプーサという語は口承伝統ではほとんど用いられておらず、同じような意味をもつゲロといった別の語のほうがはるかに一般的である、というのである。古典の名が民間に生き延びたという想定は、実地の調査に耐えないことが多い。
文化的足跡
ゲーテ『ファウスト』第二部では、「古典的ワルプルギスの夜」の場面にエンプーサが登場する。ラミアたちに誘われるメフィストフェレスの前に現れ、自分は驢馬の脚を、おまえは馬の脚をもつのだから従妹にあたる、と名乗る。文献のなかの断片的な属性——揃わない脚——が、そのまま笑いの種として用いられている。
現代の幻想文学やゲーム作品には、姿を変える女の妖として、あるいは吸血鬼の系譜に連なる存在としてしばしば登場する。原典において確かなのは、青銅の脚と、姿が定まらないことと、罵声で退散するという三点だけである。