ヘーニル
ヘーニ · ホェニル · ヘニル
北欧神話のアース神族の一柱。オーディンらとともに最初の人間に知恵を与え、ヴァン神族への人質となり、ラグナロクを生き延びる数少ない神とされる。
解説
概要
ヘーニル(Hœnir)は、北欧神話のアース神族の一柱である。伝わる記述は乏しく、まとまった物語を持たない。しかし、最初の人間の創造、アース・ヴァン戦争の人質、そしてラグナロクの生き残りという、体系の要にあたる三つの場面すべてに名を連ねる。輪郭の薄い神が構造上は重要な位置を占めるという、北欧神話にときおり見られる型の代表例である。
神話・物語
『巫女の予言』は、オーディンとローズルとともに彼が最初の人間アスクとエムブラを造ったと語る。海辺で力を持たぬ二本の木を見出した三柱が、それぞれ息、知恵、血色と姿を与える。『散文のエッダ』は、人に理性を与えたのがヘーニルだと解する。ただし『ギュルヴィたぶらかし』は同じ場面をオーディン・ヴィリ・ヴェーの三兄弟の仕業とする。スノッリが『巫女の予言』を知っていたことは確かなので、ヘーニルをヴィリの別名とみる説がある。
『ヘイムスクリングラ』の『ユングリング家のサガ』は、彼の最もよく知られた場面を伝える。アース・ヴァン戦争の和睦にあたり、アース側は大柄で見目のよいヘーニルと、深い理解の人ミーミルを人質として送った。ヴァナヘイムに着くとヘーニルはただちに首長に立てられる。ミーミルが傍らにいるあいだ、その助言はつねに的確だった。しかし集会や民会にミーミルがいないとき、彼はいつも同じことしか言わない——「ほかの者に決めさせよ」。騙されたと考えたヴァン神族はミーミルの首を刎ね、アースガルズへ送りつけた。
自ら判断できない神という造形は、人に理性を与えた神という『巫女の予言』の役割と正面から食い違う。両者を整合させる説明は、中世の資料の側にもない。
『巫女の予言』はまた、ラグナロクを生き延び、新しい世界で「運命の枝」を選ぶ者として彼の名を挙げる。生き残る神はごく少ない。
このほか、スカルド詩『ハウストロング』ではオーディン・ロキとともに巨人シャツィと出会う三神の一人として、『レギンの言葉』では黄金をめぐる旅の同行者として現れる。中世フェロー諸島のバラッド『ロキの物語』では、農夫の子を七羽の白鳥を呼び出して守る。
図像と象徴
異教期の造形は知られていない。本サイトが掲げるのは、17世紀アイスランドの写本 AM 738 4to(1680年ごろ)に描かれた図で、この神を名指しで表した数少ない前近代の作例である。ただし白黒写真からの複写で、解像度は高くない。
伝承の側で標識となるものはほとんどない。持物も乗物も伝わらない。強いて挙げれば、それは沈黙である。決断を他人に委ねる神、あるいは決断できない神という像だけが、繰り返し語られる。
ヴィクトル・リュードベリやグズブランド・ヴィグフッソンは、彼の添え名ラングイフォートル(「長脚」)とアウルコヌング(「泥の王」)を手がかりに、この神をコウノトリと結びつけた。ギリシア語 kýknos(白鳥)やサンスクリット śakuna(前兆の鳥)との比較、そして『ロキの物語』の白鳥がその論拠とされる。19世紀の推定であり、今日定説として扱われてはいない。
系譜と関係
系譜は伝わらない。父母も配偶者も子も記録がない。
関係が語られるのは、いずれも三柱一組としてである。人間の創造ではオーディンとローズル、『ハウストロング』ではオーディンとロキ、そして人質としてはミーミルと。単独で行動する場面がない神だと言ってよい。
『ギュルヴィたぶらかし』のヴィリと同一とみる説、コウノトリの神とみる説、いずれも記述の欠落を埋めるための仮説である。資料そのものが、この神について何も語らないという事実のほうが確かである。
文化的足跡
北欧神話の受容史において、ヘーニルは長らく「三柱のうちの三人目」として扱われてきた。19世紀の体系的な神話学がこの神に職能を与えようと試み、コウノトリ説や光の神説が唱えられたが、いずれも文献の裏づけを欠く。
現代の翻案でも主役になることは少ない。ただし、ラグナロクを生き延びて新しい世界で占いを行うという役どころは、終末を語る作品でときおり用いられる。