鯱
しゃちほこ · 鯱鉾 · 魚虎
頭は龍または虎、体は魚という想像上の霊獣。火伏せの験があるとされ、城の天守や寺社の大棟を飾る棟飾りとして用いられた。
解説
概要
鯱(しゃち、しゃちほこ)は、頭は龍あるいは虎、体は魚で、尾鰭を常に空へ向け、背に鋭い棘を並べるという想像上の霊獣である。同時に、その形をとって建物の大棟の両端に据えられる棟飾り——鯱瓦——の名でもある。火事の際には水を噴いて火を消すとされ、火伏せのまじないとして屋根に置かれた。「鯱」は和製漢字である。
海棲哺乳類のシャチの名がこの霊獣に由来するといわれることがあるが、「しゃち」という呼称は動物のシャチに対してのほうが古く、順序は逆である。
由来と系譜
鯱は独立して生まれたものではない。大棟の両端を飾る装飾としては、まず鴟尾(鴟尾)があり、これが中国で螭吻(ちふん。蚩吻・鴟吻とも)へ変化し、日本に伝わったものが鯱である。中国の螭吻もまた、火伏せのまじないとして屋根に据えられた。日本でも当初は蚩吻・鴟吻と呼ばれ、「しゃちほこ」の称が一般化するのは江戸中期以降のことである。『大和本草』(一七〇九年)や『和漢音釈書言字考節用集』(一七一七年)は、鴟吻と書いてシャチホコと訓ませている。
螭吻は中国では唐代に現れる。日本には遅くとも鎌倉時代には伝わっていたようで、正応年間頃(一二九五年頃)の絵物語『男衾三郎絵詞』には、屋根に載る鯱が描かれている。現存する作例では、長野県の大法寺に鎌倉末期から室町初期の制作とされるものがある。室町期には寺社の屋根や堂内の厨子を飾るものであった。
なお、大棟に獣形の飾りを据える発想そのものの淵源を、インドの水の霊獣マカラに求める見方もある。鴟尾やその周辺の意匠が仏教とともに東へ伝わったことは確かだが、鯱の直接の親をマカラに定めるだけの根拠はなく、系統をたどれるのは螭吻までである。
図像と象徴
姿の理解は、明の博物書『本草綱目』(一五九六年)に載る「魚虎」——虎の頭をもち、背にハリネズミのような針を備えた魚——との突き合わせを通じて動いた。江戸初期の『多識編』(一六一二年)はこの魚虎をシャチホコに比定する。ところが『和漢三才図会』(一七一二年)は魚虎を虎頭ではなく龍頭の魚として描き、さらに「歯と鰭は剣鉾のごとく、鯨を襲って舌を噛み切る」という説明を加えたうえで、屋根に置く蚩吻はこの魚虎であると説いた。今日一般に思い浮かべる龍頭の鯱は、この線の理解が定着したものである。ただし『庖厨備用倭名本草』はこれをオコゼに、『重訂本草綱目啓蒙』はハリセンボンに比定しており、実在の魚との対応づけは最後まで揺れた。
鯱は多く雌雄一対で据えられ、口を開いた雄と閉じた雌が阿吽の対をなす。姫路城のように、雌型の資料しか残らなかったため再建の際すべて雌型となった例もある。同じ大棟の飾りである鬼瓦が正面を睨む面であるのに対し、鯱は身をそらせた立体であり、屋根の輪郭そのものを形づくる。
素材は瓦・木・石・金属と幅がある。粘土製の鯱瓦は、軽量化と乾燥時の亀裂を避けるため中を空洞に作るため壊れやすく、棟から突き出た心棒に差して固定する。木造のものは仏像と同じく木を寄せて形を作り、防水のため外側に銅板を貼る。本項に掲げるのは、江戸時代(十八〜十九世紀)の自在置物の鯱で、鉄板を組んで鰭や胴が動くように作られている。棟の上ではなく手のひらの上で鑑賞される鯱であり、この霊獣の形が屋根を離れて工芸の主題になっていたことを示す。
城郭と権威
鯱が城郭建築に用いられた最古の例は、織田信長の安土城天主とされる。以後、天守や櫓・櫓門の飾りとして広まった。織田・豊臣政権のもとでは、顔や鰭に金箔を貼った金箔鯱瓦が権威の徴として用いられ、江戸期には名古屋城天守や江戸城天守のように、木芯に金板を打ち付けた金鯱が現れる。火伏せの呪具として始まったものが、天守の頂点で権力を可視化する装置へ転じたわけである。
現存例では、松江城天守の木芯銅板張のものが高さ二・〇八メートルで最大とされ、高知城天守には青銅鋳造のものがある。
文化的足跡
金鯱は名古屋の象徴として今日まで用いられ、企業名・チーム名にその名が残る。緊張して身を硬くすることを「鯱張る(しゃちほこばる)」というのも、あの反り返った姿からの言い回しである。屋根の上の霊獣が、都市の記号と日常語の両方に生き延びた例といえる。