ヒュペルムネーストラー
ヒュペルメーストラー · ヒュペルムネストラ · ヒュペルメストラ
ギリシア神話のアルゴス王ダナオスの長女。父の命に背いて夫リュンケウスを逃がした唯一のダナイスであり、アルゴス王統の母となる。
解説
概要
ヒュペルムネーストラー(Ὑπερμνήστρα / Hypermnēstra)は、アルゴス王ダナオスの長女で、ダナイデス五十人のうちただ一人、初夜に夫を殺さなかった女性である。母はエレパンティス、姉妹にゴルゴポネーがいる。
四十九人が命令に従うなかで一人だけ従わなかった、という構図がこの人物の全てである。ギリシア神話には親の命に背く娘が少なくないが、背いた結果として王統が続いていく例は多くない。
神話・物語
父はアイギュプトスの息子たちとの結婚を承知する振りをし、娘たち全員に短刀を渡して初夜の殺害を命じた。彼女だけが夫リュンケウスを助けて逃がす。
理由は伝承によって異なる。アポロドーロスは、彼が彼女の処女を尊重したからだとする。オウィディウス『ヘーローイデス』第14歌は彼女自身に語らせ、何度も短刀を構えながら手が下ろせず、夜が明ける前に夫を起こして逃がしたと書く。同書の彼女は、姉妹たちの行為を「婚礼が葬礼になった」と呼び、自分が咎められるのは「情け深かったこと」に対してだと述べる。父への服従と客への義務が正面から衝突する場面として、この挿話は古代から読まれてきた。
翌朝、死体の数が合わないことから露見し、彼女は市中を引き回されて投獄された。父は彼女を裁判にかけたが、判決は無罪であった。ダナオスはようやく二人の結婚を認める。
パウサニアースは、アルゴスで毎年行われた烽火の祭をこの夜に結びつける。逃がすにあたって二人は互いの無事を火で知らせ合う約束をしており、リュンケウスはリュルケイアから、彼女はアルゴスのアクロポリスであるラーリサから、それぞれ火を上げたという。
なお、アムピアラーオスの母とされるテスティオスの娘ヒュペルムネーストラーは同名の別人である。
図像と象徴
古代の図像は知られていない。彼女が主題となるのは中世以降、とくにボッカッチョ『名婦列伝』の流布を通じてである。命令に背いた貞淑な妻という像が、キリスト教圏の徳目の枠に収まりやすかったことが背景にある。
本ページの主画像は、15世紀末のフランス語写本(フランス国立図書館 Français 599, fol.14)に、ロビネ・テスタールが描いた細密画である。古代の作例ではなく、ボッカッチョ受容の産物にあたる。
系譜と関係
父ダナオス、母エレパンティス。夫はアイギュプトスの子リュンケウス。子はアバースで、その子孫にアクリシオス、ダナエー、ペルセウスが連なり、さらにヘーラクレースが出る。
姉妹四十九人が冥界で底なしの甕に水を注ぎ続けるとされるのに対し、彼女にはその罰がない。同じ夜に同じ場所にいた五十人のうち、一人だけが罰の系列から外れ、その一人だけが子孫を残す。
文化的足跡
オウィディウス『ヘーローイデス』の一篇として彼女の書簡が伝わり、中世からルネサンスにかけての「英雄書簡」受容の中で繰り返し翻案された。ホラティウス『歌集』第3巻11歌もこの夜を歌い、姉妹たちのなかで彼女を「美しく偽った乙女」と呼んでいる。