ヘフ
フフ · ハウフ · フアフ
無限を人格化したエジプトの神。ヘルモポリスの八柱神の一柱で、刻み目の入った棕櫚の枝を両手に握る姿で表される。その像はそのまま数の百万を表す記号でもあった。
解説
概要
ヘフ(ḥḥ)は、エジプト神話で無限を人格化した神である。ヘルモポリスの八柱神の一柱で、女性形の対はハウヘトと呼ばれる。
名はもともと「洪水」を意味した。世界が創られる前にあったとされる原初の水ヌゥを指す語である。エジプト人はこの混沌を、限りをもつ被造の世界に対して無限のものと捉えた。ヘフはその「限りがない」という一面を担う。
神話・物語
エジプト語 ḥḥ の第一の意味は「百万」である。百万は事実上の無限であり、この語を人格化したのがこの神にほかならない。ヘフの姿を描いたヒエログリフは、そのまま数の百万を表す記号として用いられた。「幾百万年の神」と呼ばれるのはこのためである。
八柱神の神話は、ヘフとハウヘト、ヌゥとナウネト、アメンとアマウネト、ケクとカウケトの四対が一つの出来事に合流し、そこから太陽——およびその神格であるアトゥム——が生じたと語る。創造におけるヘフの役目は、限りない背景を用意することにあった。他の神々が宇宙の最初の要素を生み出すための、無限の場と可能性である。
天を支える場面にも現れる。大気の神シューが天の女神ヌトを支えるのを助けることがあり、『天の牝牛の書』では、牝牛の姿をとったヌトを、シューとともに八柱のヘフ神が支えている。無限が空間として立ち働いている図である。
図像と象徴
本サイトが掲げるのは、エジプト学の慣行に沿って描かれた線図である。神の髭と長い鬘をつけた男が、片膝を立てて跪き、両手にそれぞれ刻み目の入った棕櫚の枝を握る。
この持物に意味が畳み込まれている。刻み目のある棕櫚の葉柄は、神殿で儀礼的な計時に用いられた道具であり、そこからヒエログリフの「年」(rnp.t)の記号になった。刻み目の一つが一年である。その根元にはシェン輪——始まりも終わりもない輪——が添えられ、これが無限を表す。すなわち、両手に握られているのは「数えられる年」と「数えきれないこと」の両方である。棕櫚の枝を頭にもう一本挿した姿もある。
跪く姿勢は「すべて」を意味する記号である籠の上でとられることもあり、この場合は「あらゆるもの」の上に無限が坐していることになる。
八柱神の男性形は、しばしば蛙または蛙の頭を持つ人として描かれる。ヘフもその例に漏れない。女性形は蛇または蛇の頭を持つ姿である。蛙の頭は多産・創造・再生を象徴し、ケク、アメン、ヌゥにも共有される。
関わる神格・伝承
対をなすのはハウヘト。八柱神の他の六柱、シュー、ヌトと関わる。
祭祀の形が独特である。この神には知られた祭祀の中心地も聖所も存在しない。信仰は象徴と個人の願いを通じて働いた。古王国末期以降、その像は護符、威信財、そして王の図像に繰り返し現れる。意味するところは一つで、「幾百万年の生命あるいは統治」への願いである。
ツタンカーメンの墓には、二つのカルトゥーシュのなかにこの神が現れる。冠として有翼の甲虫と日輪を戴く姿で、存在そのものを表す。王の遺体との位置関係から、来世における「幾百万年」を王に授ける意味であったと解される。神殿を持たない神が、王の棺のかたわらでは欠かせない存在になっている。
文化的足跡
ヘフの姿は、エジプトの数記法において百万を表す記号でもあった。神の像がそのまま数字として使われるという事態は、この文明の書記法の性格をよく示している。
日本語圏でこの神が紹介されることはまれである。それでも護符や王墓の壁面では、跪いて棕櫚の枝を掲げる姿を繰り返し目にすることになる。名を知らずに何度も見ている神格の一つといえる。