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阿修羅
PLATE — 阿修羅
DHARMA · 仏教の尊格
阿修羅

阿修羅

アスラ · 修羅 · 阿須羅

阿修羅像(天平6年/734年ごろ、脱活乾漆造、興福寺蔵、国宝)/『東洋美術』特輯4(1933年)所収図版 PUBLIC DOMAIN

帝釈天と戦い続けると語られる仏教の守護神。古代インドでは善神であり、名はイランのアフラと同源にさかのぼる。

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解説

概要

阿修羅(あしゅら、梵 asura)は、八部衆あるいは二十八部衆に属する仏教の守護神である。略して修羅ともいう。六道の一つである修羅道の主とされ、帝釈天と戦い続けると語られる。武勇と仏法守護を利益とする。

古代インドでは善なる神格であったものが、のちに神々と敵対する存在へと評価を反転させ、仏教に取り込まれてふたたび守護神の列に戻るという、屈折した来歴をもつ。

名と起源

サンスクリットのアスラ(asura)は、アヴェスター語のアフラ(ahura)に歴史言語学的に正確に対応し、インド・イラン共通時代にまで遡る古い神格と考えられている。ゾロアスター教の最高神アフラ・マズダーと語を共有していることになる。

古代インドにおいて、アスラは生命と生気を司る善神であった。名も本来は asu(息・命)に由来するとされる。ところが悪しきものとみなされるようになると、語頭の「a」が否定の接頭辞と解釈し直され、非天・非類・不端正と訳されるに至った。語源の理解そのものが、神格の評価の反転に合わせて書き換えられている。インドとイランで同じ語が正反対の位置に置かれたこの事例は、宗教史でくり返し引かれる。

神話・物語

仏教に取り込まれた阿修羅は、仏法の守護者として八部衆に加えられた。それでも帝釈天との戦いは受け継がれ、経典に繰り返し現れる。

その発端として伝えられるのは、次のような話である。阿修羅の一族はもともと帝釈天の住む忉利天にあり、阿修羅は娘の舎脂をいずれ帝釈天に嫁がせようと考えていた。しかし帝釈天は舎脂を力ずくで奪った。怒った阿修羅が戦いを挑み、以後の永い争いが始まる。帝釈天は四天王や三十三天の軍勢を差し向けて応じ、戦いは概ね帝釈天側が優勢であったという。

この争いの解釈にも異伝がある。阿修羅は正義を司り、帝釈天は力を司るとし、正義の側が敗れ続けたとする語り方がある一方、舎脂が正式に帝釈天の夫人となったのちも戦いをやめなかった阿修羅は、正義に固執するあまり赦す心を失った——つまり、正義であってもそこに執着すれば妄執の悪に転じる——という読みも伝えられる。後者は、修羅道が六道に加えられた理由を説明する形をとっている。

修羅道の位置づけも一定しない。天道・人間道とあわせて三善趣に数える説と、畜生道・餓鬼道・地獄道とあわせて四悪趣に数える説とが並び立ち、五道を立てる場合には独立させず他の道に含める。『法華経』では阿修羅が悪として描かれることは少なく、八部衆の一として善趣の存在に置かれている。

阿修羅王の名も経論によって異なる。大乗仏典では四王とすることが多く、日月を手で覆って蝕を起こす羅睺(ラーフ)、帝釈天に敗れて縛されたことからその名を得た婆稚(バリ)などが挙げられる。住処は須弥山の北の海底深くとされるが、細部は経典ごとに揺れる。

図像と象徴

一般には三面六臂の忿怒の相で表される。しかし日本でもっとも名高い阿修羅像は、その通例から大きく外れている。奈良・興福寺の阿修羅像(天平六年/七三四年ごろ、脱活乾漆造、国宝)は、西金堂の八部衆像の一つで、三面六臂という形式は守りながら、少年のように細く、憂いを帯びた表情をとる。戦い続ける神を、怒りではなく静かな翳りとして造形したこの像は、日本彫刻史でも際立った位置を占める。

系譜と関係

娘は舎脂で、帝釈天の妃となった。敵対する相手と姻戚でもあるという関係が、この争いの物語を単純な善悪の対立から遠ざけている。

八部衆・二十八部衆の一員として仏法を守る一方、六道においては修羅道の主である。守護神であると同時に、輪廻の一界を支配する存在でもあるという二重性を抱えている。

文化的足跡

「修羅場」「修羅の巷」「阿修羅のごとく」といった言い回しは、いずれもこの神の戦いに由来する。能には、討たれた武将の亡霊が修羅道の苦しみを語る修羅物と呼ばれる一群があり、修羅道の観念が中世の文芸に深く根を下ろしていたことを示す。近代以降も興福寺の阿修羅像は広く親しまれ、展覧会のたびに多くの人を集めている。

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領分・別名

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資料

Wikidata
Q1637262 — 骨格データの出典
Commons
Asura — 図像カテゴリ