応神天皇
応神天皇 · 誉田別尊 · 品陀和気命
記紀が伝える第十五代の天皇(実在は定まらない)で、誉田別尊とも呼ばれる。母神功皇后の胎内にあるうちから天皇となる定めにあったとされ、「胎中天皇」とも呼ばれた。奈良から平安時代にかけて宇佐の八幡神と重ねられ、全国の八幡宮の祭神となった。
解説
概要
応神天皇(誉田別尊)は、『古事記』と『日本書紀』が伝える第十五代の天皇である。実在したかどうかは定まっていない。母の神功皇后の胎内にあるうちから天皇となる定めにあったとされ、治世には大陸から文字や技術がもたらされたと記される。のちに九州の宇佐で祀られていた八幡神と同じ神とされ、全国の八幡宮の祭神となった。日本神話の体系に含めて扱う。
神話・物語
記紀によれば、母の神功皇后は、夫の仲哀天皇の死後、身ごもったまま朝鮮半島へ兵を出した。皇后は腰に石を挟んで出産を遅らせ、帰国したのちに筑紫の宇美で応神を産んだという。母の胎内にあるうちから天皇となる定めにあった者として、応神は「胎中天皇」とも呼ばれた。
『古事記』は、応神の治世に百済から和邇吉師(王仁)が『論語』十巻と『千字文』一巻を携えて渡来したと記す。『日本書紀』は、王仁が来朝して太子菟道稚郎子の師となり、典籍を教えたと記す。秦氏や漢氏の祖とされる人々の渡来も、この治世に置かれている。
信仰
八幡神は、もとは九州の宇佐(大分県)で祀られていた神であった。749年、宇佐の八幡神は巫女に託宣して東大寺の大仏の造立を助けると告げ、朝廷の篤い崇敬を受けるようになった。781年には朝廷から「八幡大菩薩」の号を贈られ、仏法を守る神ともなった。奈良時代から平安時代にかけて八幡神は応神天皇と重ね合わされ、平安後期の『扶桑略記』は、571年に宇佐に三歳の童子の姿で現れた八幡神が、自らを応神天皇と名乗ったという伝えを記す。応神天皇を祖とする源氏は八幡神を氏神とし、八幡神は武家の守り神として全国に広まった。
図像と象徴
本サイトが掲げるのは、江戸時代前期の住吉派の絵師、住吉具慶(1631〜1705)が描いた、応神天皇と武内宿禰の図である。八幡神の神像は僧の姿(僧形八幡)で表されることも多い。
大阪府羽曳野市の誉田御廟山古墳は、応神天皇の陵とされる前方後円墳で、墳丘の長さは約425メートル、大仙陵古墳に次ぐ日本第二の規模をもつ。2019年、百舌鳥・古市古墳群の一部として世界遺産に登録された。
系譜と関係
父は仲哀天皇、母は神功皇后。八幡神と同じ神とされる。
文化的足跡
八幡を祀る神社は、稲荷に次いで日本で最も数の多い神社の一つである。
なお神道と日本の民間信仰は今日も継承されている生きた信仰であり、本項の記述はその神格の伝承と図像に関する学術的な整理である。
領分・別名
親・配偶者・子までを表示(全体はフル系図ページへ)。実線=主要伝承/点線=異伝・別系統。