デスポイナ
デスポエナ · 女主人 · Despoena
アルカディアの密儀で祀られた女神。デーメーテールとポセイドーンの娘で、真の名は秘儀に入った者にしか明かされなかった。
解説
概要
デスポイナ(Δέσποινα / Despoina)は、アルカディアのリュコスーラで祀られた女神である。デスポイナは「女主人」を意味する称号であって、固有名ではない。真の名は密儀に入った者以外には明かされてはならず、その信仰の断絶とともに失われた。今日この女神を指す語は、呼ぶことを許された呼び名だけである。
デーメーテールとポセイドーンの娘とされ、アレイオーンの妹にあたる。
神話・物語
誕生はアレイオーンと同じである。娘ペルセポネーを探して大地をさまようデーメーテールが、ポセイドーンから逃れるために牝馬となってアルカディアの馬群に紛れたところ、神は牡馬となってこれを見つけ出した。生まれたのが名馬アレイオーンと、この女神である。パウサニアースはテルプーサの伝えとして、娘は本来やはり牝馬の姿をしていたと記す。
パウサニアースは彼女の名を書かない。「秘儀に入らぬ者には明かさない」と断ったうえで、デスポイナとだけ呼ぶ。古代の旅行記の作者が、知っていながら書かないと明言している数少ない例である。
名の語は印欧祖語に遡る。前半は dem-(家)、後半は pot-niha-(女主人)で、あわせて「家の女主人」を意味する。ミュケーナイ時代の線文字B文書に見えるポトニア(po-ti-ni-ja)と同系であり、この称号がすでに青銅器時代の祭祀に用いられていたことが分かる。デーメーテールの名を *dems-méh₂tēr(家の母)に遡らせる説もあり、母娘の名が同じ語根を分け合っている可能性がある。
リュコスーラの祭祀は、アルカディアに残った古い層に属すると考えられている。ギリシア語を話す人々がこの地に入る以前の信仰と、後から来た者たちの信仰とが混ざった結果とみられ、自然・出産・死を司る女神という青銅器時代のクレータおよびミュケーナイの祭祀の姿が、そこに透けて見える。ミュケーナイの祭祀ではワナクス(王)が女神の伴侶(パレドロス)であり、この称号は海の王としてのポセイドーンに用いられた。アルカディアの物語でポセイドーンが獣めいた馬——冥界の川の霊——として現れるのは、この層に属する観念だと説明される。
図像と象徴
本項に掲げたのは、リュコスーラのデスポイナ神殿に据えられていた祭祀像群(前190年から前180年頃、アテネ国立考古学博物館)である。メッセーネーの彫刻家ダモポーンの作で、デーメーテールとデスポイナが並んで坐し、傍らにアルテミスとティーターンのアニュトスが立つ、等身を超える四体の群像であった。構成は、ローマ帝政期にメガロポリスが発行した貨幣の図と、パウサニアースの詳細な記述の双方から知られる。
とりわけ名高いのが、デスポイナの衣(ヒマティオン)に刻まれた浮彫である。そこには獣の頭を持つ人の姿がいくつも並び、儀礼の舞を舞っているように見える。笛を手にする者もいる。獣の仮面をかぶった女たちの行列か、混成の生き物か——判断は分かれる。同様の行列は、ミュケーナイの壁画と黄金の指輪にも現れる。古い祭祀の記憶が、ヘレニズム期の彫刻に残されたと読むこともできる。
デスポイナ単独の像や、名を添えた壺絵は知られていない。密儀の女神であり、公開の図像を持たなかったことの反映であろう。
系譜と関係
父ポセイドーン、母デーメーテール。兄にアレイオーン。のちの時代にはペルセポネーと同一視されたが、リュコスーラの祭祀においては母デーメーテールと並ぶ独立の女神であった。アルテミスとも近しい関係に置かれ、群像ではその姉妹として立つ。獣と泉に結びついた女神という点で、獣の女主人(ポトニア・テローン)としてのアルテミスと同じ層に属するとみる説がある。
文化的足跡
海王星の衛星の一つにその名が与えられている。近代ギリシア語のデスピニス(δεσποινίς)は「お嬢さん」を意味し、女性への呼びかけとして日常的に用いられる。真の名が失われた女神の称号だけが、今も街角で使われていることになる。