ブカヴァツ
ブコヴァツ · ブカロ · ヴォデニ・ビク
セルビアのスレム地方に語られる水の怪異。六本脚でぬめる皮膚と節くれた角を持ち、夜に水から出て恐ろしい音を立て、人や家畜に跳びかかって絞め殺すという。
解説
概要
ブカヴァツ(Букавац / Bukavac)は、南スラヴ、とりわけセルビアの伝承に語られる水の怪異である。信仰が記録されているのはスレム(シルミア)地方——ドナウ川とサヴァ川に挟まれた、現在のセルビアとクロアチアにまたがる低地——にほぼ限られる。
名は「騒音」を意味するブカ(бука)から来ている。ドレカヴァツが「わめくもの」であるのと同じく、この怪異もまた声によって名づけられた。夜の水辺から響く正体不明の音が、両者を生んだ。
登場する物語
物語らしい物語は伝わらない。あるのは、姿と振舞いの記述である。
六本の脚を持つ。体はぬめる皮膚に覆われ、口は大きく、尾は長い。頭には節くれ立ってねじれた角が生え、目は明るい青とされる。川、沼、湿地、湖に住み、夜になって水から出てくるときにだけ出会う。
出るとまず、恐ろしい音を立てる。夜更けに水辺にいる者はその咆哮に脅かされ、そこへ跳びかかられて絞め殺される。人だけでなく家畜も襲う。伝承の要点はこの一連——水から出る、吠える、跳びかかる、絞める——に尽きている。
1900年代には、サヴァ川の岸辺(現在のセルビア側にもクロアチア側にも)で絞め殺された家畜の死骸が見つかったという話が伝わり、ブカヴァツの仕業と噂された。
図像と象徴
図像はない。古い絵も彫刻も伝わらず、本項では主画像を置いていない。
象徴として働いているのは音である。セルビア・クロアチア語のブカヴァツ(букавац)は、そのままサンカノゴイ(Botaurus stellaris)という鳥の名でもある。この鳥は夜の葦原で、遠くまで届く低い唸り声を上げる。バルカン半島に生息するアカギツネの一亜種の声を挙げる説もある。夜の湿地から聞こえる説明のつかない音に姿を与えたのがこの怪異だ、というのが最も素直な読みである。
ドレカヴァツの正体をつきとめたら沼のサンカノゴイだった、というブランコ・チョピッチの短編と、ここで同じ鳥が顔を出すのは偶然ではない。声の主を知らないという一点から、南スラヴの水辺には複数の怪異が生まれている。
関係する神格・退治した英雄
退治する英雄はいない。避けるべき場所と時刻——夜の水辺——が示されるだけである。
近い存在は多い。ドレカヴァツとは、声によって名づけられた点、夜にしか会えない点、姿の記述が一定しない点で重なる。人や家畜を水中へ引きずり込む振舞いは、東スラヴのヴォジャノーイや、南スラヴのヴォデニャクと共通する。セルビアで子どもを怖がらせる役を担ったバウクとも並べられる。
ブカヴァツを含む一群は、いずれも「水辺で夜に起こる説明のつかないこと」を人の形に近づけて名づけたものである。名の由来がそのまま音であるという点で、この怪異はその成り立ちを最も率直に示している。
文化的足跡
セルビア語では、やかましい人を指して比喩的にブカヴァツ、ブコヴァツ、ブカロと呼ぶ言い方が残る。怪異の名が日常語の悪口に落ち着いた形である。
現代のクリプティッド愛好の文脈では、ドレカヴァツ、ドラヴァの怪物、ボル湖の怪物などと並べて紹介されることが多い。ただし1970年の『セルビア神話事典』が拾った記述はごく短く、この怪異について確かに言えることは、それ以上には増えていない。