バーゲスト
バーガスト · バーグエスト · Barguest
イングランド北部の伝承に現れる黒い妖犬。大きな牙と爪、赤く燃える目を持ち、名士の死を告げて吠え、行く手を遮った者に癒えぬ傷を負わせる。
解説
概要
バーゲスト(Barghest)は、イングランド北部の民間伝承に現れる怪異である。大きな牙と爪を備えた巨大な黒犬の姿をとることが多いが、ノーサンバーランドとダラムでは、家に憑く精や幽霊一般を指す語としても用いられた。ハイルトンの「冷たい若者」はその例である。
名の由来には諸説ある。北部イングランドで ghost を guest と発音したことから burh-ghest(町の幽霊)とする説、ドイツ語の Berg-geist(山の精)や Bär-geist(熊の精)に通じるとする説、Bahr-Geist(棺台の精)に遡らせる説が挙げられてきた。いずれも決め手を欠く。
登場する物語
ヨークシャー・デイルズの人里離れた峡谷トローラーズ・ギルは、この怪異が出るとされる場所の代表である。ウィリアム・ホーン『エヴリデイ・ブック』(1830年)に収められた「トローラーズ・ギルの伝説」は、石灰岩の谷へ分け入り、儀式によってバーゲストを呼び出して対決しようとした男の話を伝える。男はほどなく息絶えて見つかり、その胸には人のものではない痕が残っていた。
ヨークの町にも現れ、スニッケルウェイと呼ばれる狭い小路で独り歩きの旅人を襲うという。シャンブルズ一番地の建物は、この名を冠している。ウィットビー、そしてリーズ近郊のリーグホーンとヘディングリー・ヒルのあいだの荒地にも同種の伝えがある。
ダラムでは、1870年代にダーリントン近くの一体が姿を変えるものとして語られた。首のない男——炎とともに消える——、首のない女、白猫、兎、犬、そして黒犬。ウィリアム・ヘンダーソンが1879年に発表した『イングランド北部諸州と境界地帯のフォークロアについてのノート』は、リーズ近郊の名士が死の床につくと荒地にバーゲストが現れたと記録している。
図像と象徴
図像は伝わらない。当サイトも主画像を掲げない。伝承が与える標識は、姿よりもむしろ音と徴である。
赤く燃える目と、引きずる鎖の音。姿を消して鎖の音だけを響かせることもある。名のある人物が世を去るとき、バーゲストは現れて近隣のすべての犬を引き連れ、吠えながら葬列のように町を練り歩く。その行く手を遮った者は前足で打たれ、けっして癒えることのない傷を負う。家の戸口に横たわることで、その家の者の死を予告するともいう。吸血鬼と同じく流れる水を渡れないため、川を越えれば逃れられる。
死の前触れという一点で、この怪異の性格は尽きている。姿が黒犬に定まらず、熊にも首なし人にも変わるのは、姿ではなく徴として語られてきたことの裏返しである。
関係する神格・退治した英雄
退治譚は伝わらない。バーゲストを倒す英雄も、封じる聖者もいない。それは戦う相手ではなく、避けるべき徴だからである。
分類上は、ブリテン諸島に広く分布するブラックドッグの一種にあたる。イースト・アングリアのブラック・シャック、マン島のモーゼ・ドゥーグ、ウェールズのアンヌンの猟犬(クーン・アンヌン)が同じ圏に属し、いずれも死や不吉と結びつく黒い犬である。同じ北方の水辺の怪異でも、人を水中へ引き込むケルピーとは性格が異なる。日本語圏の紹介では、シェイクスピア『マクベス』に魔女が言及する冥界の女神ヘカテーの猟犬にその源を求める説明も見られるが、これは近代の連想であって伝承の系統ではない。
文化的足跡
19世紀の民俗収集家——ホーン、ヘンダーソン、ジョゼフ・リトソン——の記録によって、この地方の怪異は文字に残った。20世紀以降、「バーゲスト」の名はイングランドの一地方の伝承を離れ、幻想文学やテーブルトークRPG、ゲームにおいて黒犬型の怪物を指す一般名詞のように用いられるようになっている。原典の側にあるのは、荒地に響く遠吠えと、癒えない傷の言い伝えだけである。