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PLATE — 太一
SINÆ · 中国神話・道教
太一

太一

たいいつ · 泰一 · 太乙

もとは早い時期の北極星を指す星の名で、戦国時代から漢代にかけて天帝とあがめられた最高神。漢の武帝は前112年にこれを国家の最高神として祀った。知識人は宇宙の根源、「道」として哲学的に捉えた。

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解説

概要

太一(たいいつ)は、古代中国の天文学における星の名で、早い時期の北極星を指し、のちに先秦・両漢の民間信仰で最高神とされて天帝とあがめられた。知識人は太一を哲学的に捉え、永遠に変わらない法則、すなわち「道」や宇宙の根源とした。漢の武帝の時代に国家の祭祀に取り入れられ、五方の上帝の上に置かれた。大一、泰一、太乙、天一とも書く。

星として

太一星は今日のりゅう座42番星(あるいは184番星)にあたり、殷・周のころには北極星であった。漢代には天の北極から20.7度離れ、紫微垣の宮門の外に位置して、もはや北極星ではなかった。司馬遷の『史記』天官書は、「中宮の天極星、その一つの明るいものに太一が常に居る」と記す。

神格として

戦国時代には楚と秦の信仰で最高神とされ、『楚辞』では「東皇太一」と呼ばれる。『呂氏春秋』は太一が天地万物を造ったと記す。太一は人の世の吉凶禍福をつかさどり、風雨、旱魃、戦、飢饉、疫病、災害を主るとされ、これを祀れば神仙を招くことができると考えられた。漢代の道教も太一を崇め、後漢末の太平道は太一を尊んだ。

前133年、方士の薄誘忌が太一を祀ることを上奏し、太一は五帝の上にあるとした。漢の武帝はまず祠官に祀らせ、前112年には郊祀に加えて国家の最高神とした。儒者の多くはこれを受け入れず、紀元5年に平帝は太一を皇天上帝と同一とし、「皇天上帝泰一」と称した。後漢の国家祭祀では太一の名は省かれて星の神の一つに下ったが、唐・宋の時代に一時ふたたび重んじられた。

宇宙の根源として

先秦・両漢の知識人は、太一を宇宙の根源である元気とし、天地を開くとともに宇宙の法則「道」でもあるとした。『荘子』天下篇は「これを建つるに常無有を以てし、これを主とするに太一を以てす」と述べ、『呂氏春秋』大楽篇は「道なる者は至精なり、形と為すべからず、名と為すべからず、強いてこれが名を為せば、これを太一と謂う」と記す。戦国時代中期に書かれた郭店楚簡『太一生水』は、「天地は太一の生ずる所なり」と述べ、太一が水を生み、水が天地を生むという宇宙論を伝える。

図像と象徴

戦国時代の楚では、太一は半ば神、半ば獣の姿で、双羽の冠をいただき、鎧をまとい、両手と股下にそれぞれ竜を伴い、左足で日を、右足で月を踏む姿で表された。山東や河南に残る漢代の画像石では、人首蛇身の姿や恐ろしい獣の姿で刻まれ、伏羲と女媧が左右に並ぶこともある。後漢以降は、儒家思想の影響のもとで衣冠を整えた人の姿で表されるようになった。

系譜と関係

『楚辞』の東皇太一と同一視され、道教では太乙救苦天尊などの名に残る。

なお中国の民間信仰と道教は今日も継承されている生きた信仰であり、本項の記述はその神格の伝承と図像に関する学術的な整理である。

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領分・別名

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資料

Wikidata
Q10028353 — 骨格データの出典