グレンデル
グレンデル · グレンデール
古英語叙事詩『ベーオウルフ』に登場する怪物。カインの末裔とされ、館ヘオロットを十二年にわたり夜ごと襲った。ベーオウルフに腕をもぎ取られて死ぬ。
解説
概要
グレンデル(Grendel)は、古英語の叙事詩『ベーオウルフ』に登場する怪物。デンマーク王フロースガールの館ヘオロットを、十二年にわたって夜ごと襲い、人を喰らった。イェーアト人の英雄ベーオウルフに腕をもぎ取られ、沼の巣で死ぬ。
まず断っておくべきことがある。グレンデルは北欧神話の存在ではない。アングロサクソン、すなわち古英語の文学に属し、聖書のカインの末裔とされる点でキリスト教の枠組みのなかにいる。本サイトではゲルマン語圏の受け皿として北欧神話の体系に置いているが、『エッダ』にもサガにも、この名は現れない。
呼ばれ方は一定しない。エオテン(eoten)、シュルス(þyrs)——いずれもゲルマン圏の広い意味での巨人や鬼を指す語で、古ノルド語のヨトゥンと同根である。加えてスカドゥゲンガ(sceadugenga=影を歩く者、夜行くもの)とも呼ばれる。名そのものの語源は定まらず、「粉砕する」を意味する語根や、砂底・沼底を指す語との関係が提案されている。
登場する物語
物語は、音から始まる。
フロースガールが建てた壮麗な館ヘオロットでは、夜ごと竪琴が鳴り、詩人が世界の創造を歌った。沼に棲むグレンデルは、その歌声に苛まれる。カインの末裔として神に呪われ、喜びから追放された者にとって、人の集いの喜びは責め苦であった。
耐えかねた怪物は館を襲い、眠る戦士を三十人さらって行った。以後十二年、ヘオロットは夜には使えぬ建物となる。人はそこで眠ることも、王座に近づくこともできない。
噂を聞いたベーオウルフが、故国イェーアトからやって来る。歓迎の宴のあと、戦士たちは館で床につき、襲撃を待った。グレンデルは扉を拳で破って押し入り、眠っていた一人を掴んで喰らう。二人目に手を伸ばしたとき、その相手が掴み返してきた——ベーオウルフである。英雄は武器も鎧も使わず、仲間にも頼らない。神が与えた腕力だけで組み合い、怪物の腕をつけ根から引き抜いた。
グレンデルは沼へ逃れ、そこで死ぬ。ちぎれた腕はヘオロットの屋根に掲げられた。だが翌夜、母親が復讐に現れる。ベーオウルフは湖の底の館へ潜り、そこにあった巨人の剣で母を討ち、ついでグレンデルの死体の首を落として戦利品とした。首は運ぶのに四人がかりであったという。
図像と象徴
姿が描かれていない。これがこの怪物の最大の特徴である。
詩は、フロースガールに「おおむね人の形をしているが、はるかに大きい」と言わせるにとどまる。首は四人で運ぶ大きさ、ちぎれた腕は硬い鱗と角質に覆われていた——手がかりはその程度である。何頭身なのか、何本脚なのか、毛があるのか、鱗があるのか、詩は語らない。
この曖昧さは、後世の翻案が自由に振る舞える余地になった。19世紀以降の挿絵は、毛むくじゃらの巨人、鱗の生えた獣、腐りかけた死者、緑の悪鬼と、一定しない。1971年のジョン・ガードナーの小説『グレンデル』は、怪物の一人称で物語を語り直し、実存的な苦悩を抱えた知性ある存在として描いた。2007年の映画版は、ベーオウルフ側の造形を変えることで怪物の位置づけごと組み替えている。原典が姿を規定しなかったことが、千年後の再解釈を可能にしている。
視覚資料として最も確かなのは、怪物の絵ではなく、詩そのものを伝える写本である。大英図書館所蔵のノーウェル写本(Cotton Vitellius A. xv)は西暦1000年前後の筆写で、『ベーオウルフ』を伝える唯一の写本である。1731年のアシュバーナム・ハウスの火災で縁が焼け、以後も損傷が進んだ。この一冊が失われていれば、グレンデルは存在しなかった。
関わる神格・伝承
母がいる(名は伝わらない)。父も語られない。カインの末裔とされることから、聖書の系譜に接続される。
J・R・R・トールキンは1936年の講演「ベーオウルフ——怪物と批評家」で、この点を論じた。カインの子孫としてエオテナス(巨人)やイルフェ(妖精)が挙げられるのは、古ノルド語のヨトナルとアールヴァルに対応する語であり、キリスト教の系譜にゲルマンの異教の存在が接ぎ木されている、と。詩人はこれを意図的に行っている、というのがトールキンの主張である。この講演は、それまで言語史や歴史資料としてのみ扱われてきた『ベーオウルフ』を、文学として読む道を開いた。
北欧側では、『グレティルのサガ』の一挿話——グレティルが館を襲う怪物と組み合い、その腕を引き抜く——が構造的によく似ており、共通の伝承の反映と論じられてきた。
文化的足跡
トールキン自身の創作にも影響は及んでいる。武器の効かない相手、夜に襲う存在、追放された者の孤独という主題は、彼の作品に繰り返し現れる。
だが最も広い足跡は、「怪物とは何か」という問いそのものにある。グレンデルは、人を喰らう外敵でありながら、喜びから追放された者として造形されている。歌が聞こえるから襲うのであって、飢えているからではない。この動機づけは、後世の怪物譚のほとんどにはない。近代以降にこの怪物が繰り返し語り直されるのは、そこに読み取るべき余白が残されているためである。
領分・別名
親・配偶者・子までを表示(全体はフル系図ページへ)。実線=主要伝承/点線=異伝・別系統。