アナンケー
アナンケ · アナンカイエー · ネケッシタース
不可避と必然を人格化したギリシアの女神。紡錘を手にし、モイライの母とされる。「神々といえどもアナンケーとは戦わない」とシモーニデースは詠んだ。
解説
概要
アナンケー(Ἀνάγκη)は、ギリシアの宗教と神話において、不可避、強制、必然を人格化した女神である。名は普通名詞のアナンケー(「力、拘束、必然」)そのものである。
紡錘を手にする姿で表されるのが通例である。この女神と、その兄弟にして伴侶であるクロノス(時の擬人化。ティーターンのクロノスとは別)の誕生が、カオスの永劫と宇宙の始まりを分かつ境と考えられた。
運命と境遇を支配する最も強大な存在とされる。人も神も等しくその力を敬い、これに礼を捧げた。
神話・物語
オルペウス教の神話では、アナンケーは自ら生じた存在であり、創造の始まりに、実体を持たぬ蛇の姿で現れた。差し伸べた両腕が宇宙を包み込む。アナンケーとクロノスは伴侶であり、蛇の姿のまま絡み合って宇宙を締める帯となる。両者はともに創造の原初の卵を砕き、天と地と海を生じさせた。
モイライ(運命の三女神)の母とされ、それゆえその決定を覆しうる唯一の存在と考えられた。ゼウスを例外とする資料もある。
シモーニデースは「神々といえどもアナンケーとは戦わない」と詠んだ。ホメーロスはこの語を必然として用い、あるいは力として用いる。ギリシア文学において同じ語は「運命」「宿命」を意味し、転じて「上位者による強制ないし拷問」をも指した。
図像と象徴
本サイトが掲げるのは、エドモン・ルシュヴァリエ=シュヴィニャールの版画である(『マガザン・ピトレスク』1857年)。モイライの上に立つアナンケーが描かれている。
持物は紡錘である。プラトーン『国家』第10巻の「エルの物語」において、アナンケーは膝の上に宇宙の紡錘を載せて坐す。その周囲でモイライたちが糸を紡ぐ。天体の運行そのものが、この紡錘の回転として描かれる。
象徴として押さえておきたいのは、この女神が擬人化されきっていないという点である。姿は与えられているが、物語における行為はほとんどない。必然とは働きかける主体ではなく、そのもとで一切が起こる条件である。ギリシアの宗教が、そうした条件そのものに名と姿を与えたことの意味は小さくない。
関わる神格・伝承
伴侶にして兄弟はクロノス。娘はモイライ。ローマにおける対応神はネケッシタース(「必然」)である。
古代の旅行家パウサニアースは、コリントスにアナンケーとビアー(力、暴力、性急さ)が同じ社で祀られた神殿があったと記す。
アプロディーテー、とりわけ抽象的な天上の愛を表すアプロディーテー・ウーラニアーと同一視され、あるいは結びつけられることも多い。両者は、比較的擬人化されず、生の道筋を定める力として近い位置にあると考えられた。
文化的足跡
アナンケーという語は、近代の哲学において「必然」「論理的必然」「自然法則」を意味する語として引き継がれた。フロイトが「アナンケー」を用いて外的現実の強制を指したこともよく知られる。
ヴィクトル・ユゴー『ノートル=ダム・ド・パリ』は、大聖堂の壁にギリシア文字で刻まれた ΑΝΑΓΚΗ の一語から始まる。この一語が小説全体の主題を告げるという構成であり、19世紀ヨーロッパにおいてこの語が持っていた重みを示している。
領分・別名
親・配偶者・子までを表示(全体はフル系図ページへ)。実線=主要伝承/点線=異伝・別系統。