天神
てんじん · 天神様 · 天満大自在天神
菅原道真の怨霊が北野の火雷神と習合して成立した神格。清涼殿落雷事件を契機に朝廷が北野天満宮を建てて祟りを鎮め、のちに学問の神に転じた。牛と梅を象徴とし、天満宮は約一万社を数える。
解説
概要
天神(てんじん)は、日本における天神(雷神)に対する信仰の対象であり、とりわけ菅原道真を「天神様」として畏怖・祈願する神道の信仰においてその神格をいう。
本来、天神とは国津神に対する天津神のことであり特定の神の名ではなかったが、道真が没後すぐに天満大自在天神という神格で祀られ、続いて清涼殿落雷事件を契機に、道真の怨霊が北野の地に祀られていた火雷神と結びつけて考えられ火雷天神と呼ばれるようになった。のちに火雷神は眷属として取り込まれ、日本太政威徳天などの神号が確立した。
歴史
藤原時平の陰謀によって大臣の地位を追われ、大宰府へ左遷された道真は、失意のうちに没した(903年)。その死後すぐに、臣下の味酒安行が道真を天満大自在天神という神格で祀った。
その後、疫病がはやり、日照りが続き、醍醐天皇の皇子が相次いで病死した。さらには清涼殿が落雷を受け多くの死傷者が出た(930年)。これらが道真の祟りだと恐れた朝廷は、道真の罪を赦すとともに贈位を行った。
清涼殿落雷の事件から道真の怨霊は雷神と結びつけられた。もともと京都の北野の地には平安京の西北・天門の鎮めとして火雷神という地主神が祀られており、朝廷はここに北野天満宮を建立して道真の祟りを鎮めようとした(947年)。987年には「北野天満宮天神」の勅号が下された。
怨霊から学問の神へ
平安時代末期から鎌倉時代にかけて、怨霊として恐れられることは少なくなった。この頃に描かれた『天神縁起』によれば、慈悲の神、正直の神、冤罪を晴らす神、和歌・連歌など芸能の神として信仰されるようになっていた。
江戸時代以降は、道真が生前優れた学者・歌人であったことから、学問の神として寺子屋などで盛んに信仰されるようになった。
もともとの火雷神は天から降りてきた雷の神とされ、雨とともに起こることから農耕の神でもあった。各地に火雷神と同様の伝承で天神が祀られていたが、道真が天神様と呼ばれるようになり、各地で祀られていた天神もまた道真であるとされるようになった。
図像と象徴
本サイトが掲げるのは、天満宮の臥牛像である。牛は天神の使いとされる。
道真の遺体を運ぶ牛車の牛が動かなくなった場所に安楽寺(太宰府天満宮)が建てられたという伝えから、牛は天神の神使とされ、撫でると病が癒えるという「撫で牛」が各地の天満宮に置かれる。
梅もまた天神の象徴である。道真が左遷に際して詠んだ「東風吹かば」の歌と、その梅が太宰府まで飛んだという飛梅伝説による。
実在の人物の怨霊が、雷神と習合して国家的な神になり、さらに学問の神に転じるという経緯が、この神を規定する。御霊信仰の最も成功した例である。
関わる神格・伝承
火雷神と習合。御霊信仰の系列に属し、菅原道真の神格化である。
天神を祀る神社は天満宮、天満神社、天神社、菅原神社などの名称で約一万社あり、分社の数は稲荷・八幡に次ぐ第三位である。
文化的足跡
受験シーズンには全国の天満宮に合格祈願の参拝者が集まる。北野天満宮と太宰府天満宮はそれぞれ「総本社」「総本宮」と称し、いずれかがいずれかから勧請されたものではない。
なお神道と日本の民間信仰は今日も継承されている生きた信仰であり、本項の記述はその神格の伝承と図像に関する学術的な整理である。