ナックラヴィー
ヌックラヴィー · 海坊主 · Knoggelvi
オークニー諸島の伝承に現れる海の魔物。皮のない馬の体に人の胴が生えた姿で、毒の息が作物を枯らし、疫病と干ばつをもたらすとされた。
解説
概要
ナックラヴィー(Nuckelavee)は、スコットランド・オークニー諸島の民間伝承に現れる海の魔物である。皮膚を持たない馬の体に、同じく皮のない人の胴と腕が騎手のように生えた姿で語られる。夜陰にまぎれて遠目に見れば、ただの騎手の影に見えるという。
主として海に棲みながら、その息は作物を枯らし家畜を病ませ、陸の干ばつと疫病の元凶とされた。民俗学者キャサリン・ブリッグズは、スコットランド北部諸島の魔物のうち最も忌まわしいものと呼んでいる。
名はオークニー方言の knoggelvi に由来し、19世紀の民俗学者ウォルター・トレイル・デニスンによれば「海の悪魔」の意である。シェトランドではムッケレヴィと呼ばれ、海のトロウ(sea-trow)の一種とされた。19世紀初頭の好古家サミュエル・ヒバートは、語頭の nuck を悪魔の別名オールド・ニック、およびラテン語 necare(殺す)に通じるものとみた。
登場する物語
海中でどのような姿をしているかを語る話はない。陸に上がった姿についての唯一の直接の証言は、島民タマスがデニスンに何度も促されて渋々語ったものである。
それによれば、脚のない人の胴が馬の背に騎手のように付き、腕は地に届くほど長い。胴の頭は差し渡し九十センチほどもあり、支えきれぬように前後に揺れていた。馬の頭は大きく裂けた口から刺すような毒の息を吐き、燃える炎のような赤い一つ目を持つ。脚にはひれのような突起がある。そして最も陰惨なのは皮膚がないことで、黄色い血管を黒い血が流れ、白い腱と太い筋肉が脈打つのがそのまま見えたという。
証言は細部で食い違う。デニスン自身の記述は、豚のように突き出た口を持つ人の頭を挙げるにとどまる。アーネスト・マーウィックも頭は一つ、赤い一つ目とのみ記し、口を鯨のようだと形容するタマスの表現を借りている。ケンタウロスに似ると伝える報告もある。16世紀のジョー・ベンによるラテン語写本には、ストロンセー島の魔物についての記述があり、これをナックラヴィーとみる説がある。
歴史と重なる挿話もある。1722年、ストロンセー島で海藻を焼いてケルプ(ソーダ灰)を作る産業が始まった。焼くときの刺すような煙がこの魔物を激怒させ、その報復として、モータシーンと呼ばれる馬の不治の病が島に広がったと語られる。病はやがてこの産業に関わる島々すべてに及んだ。異常な少雨と不作もまた、この魔物のしわざとされた。
図像と象徴
主画像は、ジョージ・ブリズベン・ダグラス編『スコットランドの妖精譚と民話』(1901年)にジェームズ・トランスが描いた挿絵で、「タミーはナックラヴィーの爪の風を感じた」という一節の場面である。これは19世紀末以降の造形であって、古い図像は伝わらない。
語りが与える標識は明確である。皮のない体、赤い一つ目、毒の息、ひれのある脚。そして弱点もまた明確で、淡水を渡ることができない。追われた者は川か小川を跨げばそれだけで逃れられる。タマスも湖の水を跳ねかけて難を逃れたという。雨の降る日には陸に上がらない。島民はこの名を口にするとき、必ずすぐに祈りの句を唱えたと伝えられる。
皮膚を剥がれた体という造形は、他の水馬の伝承には見られない。海と病、そして目に見えぬまま作物を枯らすものへの恐れが、この一点に集められている。
関係する神格・退治した英雄
退治した英雄は伝わらない。これを制しうる唯一の存在は、オークニーの古い精霊「海のミザー(Mither o' the Sea)」で、夏のあいだこの魔物を海底に閉じ込めておくという。夏に凪ぎ、冬に荒れるという海そのものの季節が、そのまま拘束と解放の物語になっている。
オークニーの伝承にはスカンディナヴィアの影響が濃く、この魔物もまた、ケルトの水馬とノルド人がもたらした怪異とが重なった複合とみられている。マーウィックは、ノルウェーのネック(nøkk)、シェトランドのナグル、そしてケルピーとの近さを指摘した。人を水中へ誘い込むこれらの水馬と違い、ナックラヴィーは陸へ上がって害をなす点で異質である。
文化的足跡
デニスンとマーウィックによる採録がなければ、この魔物の名は残らなかった。19世紀末は民俗の書き取りが盛んになった時代であり、同時に、記録者が語を英語風に整え、散文に直す過程で細部を改める時代でもあった。ナックラヴィーの描写が資料ごとに食い違うのは、その事情の反映でもある。20世紀以降は幻想文学やゲームに「最も醜悪な魔物」として引かれ、日本語圏では海坊主の訳語を当てた紹介もある。