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セー・アカトル・トピルツィン
PLATE — CĒ ĀCATL TOPILTZIN QUETZALCŌĀTL
AZTECA · アステカ神話
CĒ ĀCATL TOPILTZIN QUETZALCŌĀTL

セー・アカトル・トピルツィン

セー・アカトル・トピルツィン · トピルツィン · Cē Ācatl Topiltzin

ケツァルコアトルの図 PUBLIC DOMAIN

10世紀のトルテカの王とされる神話化された人物。人身供犠を廃したがテスカトリポカに酒で欺かれて都を去り、東へ去った。「一の葦の年」に戻ると告げたという。コルテスをその帰還と誤認したという説は征服後の構成とする見方が有力。

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解説

概要

セー・アカトル・トピルツィン・ケツァルコアトル(「我らの君、一の葦、羽毛ある蛇」)は、16世紀のナワの歴史的伝承の記述に現れる神話化された人物である。

アステカの伝承において10世紀のトルテカの支配者と同定される。895年〜947年という年代がしばしば挙げられるが、これは年代記の暦年(誕生と退去がともに「一の葦」の年)を西暦に換算した一説であり、史実の生没年ではない。アステカは、自らが中央メキシコの高原に定住する数世紀前に、この地域を治めた先行者としてトルテカ人を見ていた。

後の世代において、彼は文化英雄にして伝説の人物となり、しばしば重要なメソアメリカの神格ケツァルコアトルと混同され、あるいは同一視された。

王と神の混同

トピルツィンは、その名のなかに神ケツァルコアトルの名を含んでいる。トルテカの王が、神の名を称号として用いていたためである。16世紀以降の資料では、王と神とが区別されないまま語られている。今日の研究は両者を分けて考えようとしているが、資料そのものが混同しているため、完全に分けることは難しい。本項は歴史上の王として語られる伝承を扱い、神としてのケツァルコアトルについては、その項に譲る。

伝説

トピルツィンはトゥーラ(トッラン)の都を治め、人を犠牲に捧げることをやめさせて、かわりに蝶や蛇を捧げさせたという。しかし神テスカトリポカがこれを妬み、トピルツィンに酒を飲ませて、姉と交わらせた。これを恥じたトピルツィンは都を去り、東へ向かった。海辺にたどり着くと、蛇の筏に乗って去っていったとも、自ら火のなかに入り、その心臓が明けの明星になったともいう。去るにあたって、トピルツィンは「一の葦の年」に戻ってくると告げたとされる。

コルテスとの結びつき

スペイン人がやって来た1519年がちょうど「一の葦」の年にあたったため、アステカの王モクテスマがコルテスを帰ってきたケツァルコアトルと思い違えた、という説が広く語られてきた。しかし近年の研究では、この物語は征服ののちにスペイン人と先住民の双方によって作り上げられたもので、征服以前の伝承ではないとする見方が有力である。征服を避けられない定めとして説明する物語が、あとから作られた可能性が高いのである。本項はこの議論を踏まえ、通説をそのまま受け入れることはしない。

図像と象徴

本サイトが掲げるのは、ケツァルコアトルの図である。

関わる神格・伝承

ケツァルコアトルと混同される。テスカトリポカに追われた。

羽根細工師の神コヨトリナワルも、トピルツィンにまつわる物語に登場する。

文化的足跡

トゥーラ(イダルゴ州)の遺跡には、アトランテスと呼ばれる巨大な戦士の石柱が残る。トルテカ美術の代表である。

なおメソアメリカの先住民の伝統は今日も継承されている生きた文化であり、本項の記述はその神格の伝承と図像に関する学術的な整理である。

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領分・別名

親・配偶者・子までを表示(全体はフル系図ページへ)。実線=主要伝承/点線=異伝・別系統。

フル系図ページを開く →
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資料

Wikidata
Q557769 — 骨格データの出典